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Ravensburger/ラベンスバーガー社
ドイツ


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 ・ラベンスバーガー社について

 ・ラベンスバーガー社の歴史

 ・ニキティキとラベンスバーガー社

 ・ラベンスバーガー社の本 

 ・ラベンスバーガー製品のデザインの移り変わり  

 ・ラベンスバーガー社の製品 




ラベンスバーガー社について



オットーマイヤー出版社(Otto Maier Verlag)、現在のラベンスバーガー(Ravensburger)社の創設者オットー・ロバート・マイヤー(Otto Robert Maier)は、ベルリン、チューリッヒ、グラーツで修行を重ねた後、亡き父親が経営をしていたドーンシェン書店(Dorn'schen Buchhandlung)を引き継ぐため、1876年故郷ラーベンスブルグ(Ravensburg)に戻り、日常生活に役立つ様々な情報、建築や工芸品製作のための型見本集、入門書、青少年向きの図書などの出版を手掛けはじめます。また3人の息子の父親として、当時の教育理念、特にフレーベルの思想や主義に強い影響をうけ、それを信条とした教育を子ども達にほどこしました。 31歳で独立したオットーが、初めて出版契約にサインをした1883年が、ラベンスバーガー社の出発年となります。 翌年の1884年、ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)のベストセラー小説「80日間世界一周」をヒントにつくったボードゲーム「Reise um die Erde(世界一周旅行)」を製作、子どものための教育遊具やゲームの開発にも力を入れはじめます。ゲームで徐々に知名度を高めていったオットーマイヤー社は、1900年初頭からヨーロッパの各都市にセールスマンを派遣したり、多言語に対応したゲームをつくることで積極的に輸出を行い、西ヨーロッパのみならず、東のオーストリア=ハンガリー帝国や北のバルト三国においても大きな成功を収めました。 第二次世界大戦後は、書籍からゲームへと主力商品が移行し、子どもから大人まで楽しめる「ファミリーゲーム」を数多く開発、販路も世界へと拡大します。1993年には、社名をラベンスバーガー社(Ravensburger AG)に改め、2008年には創業125周年を迎えました。 2010年の従業員数は合わせて1471人。売り上げの75%は2000種類もあるゲーム・パズル類、残る25%は約1500点の子どもや青少年向けの書籍が占め、ボードゲームのメーカーとしてはドイツで最大の規模を誇り、パズルに関してはヨーロッパの最大手に成長しました。また総売り上げの半分以上を75カ国にわたる海外で得ており、今では三角形の青いラベンスバーガー社のロゴは世界中でその知名度が高くなっています。



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1. オットー・ロバート・マイヤー氏 1923年
2. ラーベンスブルグの風景 1910年頃のポストカード
3. ラーベンスブルグのマルクト通り。この通りの左側の建物にオットーマイヤー出版があった。 1910年頃
4. ラベンスバーガー本社 © Ravensburger AG

*写真1-3は『1883-1983, Hundert Jahre Verlagsarbeit』 1983年 Otto Maier Verlag Ravensburg社刊より






ラベンスバーガー社の歴史



1852年

オットー・ロバート・マイヤー(Otto Robert Maier)、ラーベンスブルグ(Ravensburg)で生まれる。

 

1872
〜76年

ベルリン、チューリッヒ、グラーツで修業を重ねる。

1876年

故郷のラーベンスブルグに戻り、亡き父親が経営していたドーンシェン書店(Dorn'schen Buchhandlung)の共同経営に携わる。

1883年

独立して、初めての出版契約を結ぶ(オットーマイヤー社、後のラベンスバーガー社の出発点)。

1884年

第一号のボードゲーム「世界一周旅行(Reise um die Erde)」を製作。

1893年

『オットーマイヤー 出版書店』(Otto Maier, Verlagsbuchhandlung)の商業登記。

1902年

ヨーロッパの各都市や見本市へセールスマンの派遣を開始 。

1905年

"Ravensburger Spiele"という商標を特許庁に登録。

1912年

多言語に対応したゲームを製作、輸出にも力を入れる。

1923年

製本、製箱、印刷を社内で行うようになる。

1925年

オットー73歳で死去。オットーは42年間に1000点を越すゲーム類や書籍を世に送り出した。
会社はオットーの3人の息子たち、オットー(Otto Maier jun.)、カール(Kahl Maier)、オイゲン(Eugen Maier)に引き継がれる。

1927年

帽子とりゲーム(Fang den Hut!)発売。 商品プログラムも多方面に拡大。 第二次大戦中は年少者労働に関する書籍の需要が高まる。

1945年

戦後の混乱期、従業員数名で出版と製造を再開し、比較的順調に仕事を軌道に乗せることができた。

1952年

オイゲンが戦死したのに加え、オットーが急死。創始者の孫であるオットー・ユリウス・マイヤー(Otto Julius Maier)が経営に参加。 のちに孫娘のドロテー・ヘス−マイヤー(Dorothee Hess-Maier)も加わり、3世代目が中心の時代へ。 1958年からはエルヴィン・グロネガー(Erwin Glonnegger)とともに盤石な会社組織を築いていった。

1959年

メモリー(memory)シリーズ発売。翌年発売のバリケード(Malefiz)と共に大ヒット商品となる。

1960年代
前半

工作キット(Ravensburger Hobbys)、シグソーパズルの販売が開始された。 ラーベンスブルグの工業地帯に4万平方メートルの敷地を確保し、印刷部門、製箱部門、倉庫、出荷部門を擁する工場を建設。

1964年

オランダに海外ではじめての子会社を設立。

1970年

西ヨーロッパの各国に営業所が設置される。この頃、木製玩具を扱ったことがきっかけとなり、パズル・ゲーム・絵本などの商品も玩具店の店頭で販売されるようになった。

1974年

会社の規模拡大に伴い、統一したロゴが必要になる。青い三角形に白ヌキのRavensburgerの文字の入った現在のロゴの使用が、国際的に可能となる。

1977年

ゲーム部門と書籍部門に分け、80年代からはそれぞれの営業ルートで販売を行う。

1983年

創立100周年を迎え、記念誌を出版。子ども向けテレビ番組の製作部門(Ravensburger Film+TV GmbH)を設立。

1990年

ドイツ統一後は旧東ドイツや東欧の諸国に販路が拡大していく。

1993年

書籍部門、ゲームパズル部門、テレビ番組の製作部門を子会社として新たに出発。社名を オットーマイヤー社からラベンスバーガー(Ravensburger AG)社に変更。

1998年

ドイツ・ボーデン湖の近郊に、ラベンスバーガー シュピーレランド(Freizeitpark Ravensburger Spieleland)が誕生、2歳から12歳くらいの子どもたちや家族連れが楽しめる遊園地として人気を博す。

2000年

子どもの教育や、絵本の普及関連の公益事業のためにラベンスバーガー基金(Stiftung Ravensburger Verlag)を設立。

2008年

創立125周年を迎える。

2009年

デジタルコンテンツなどを開発するラベンスバーガー・デジタル社(Ravensburger Digital GmbH)を設立。

2010年

かつての本社屋であった建物をリニューアルした、ラベンスバーガー博物館(Museum Ravensburger)がオープン。




 《 ロゴの変遷 (抜粋)》

1883年 1900年 1926年 1956年 1959年 1966年 1968年 1974年


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歴代のヒットしたファミリーゲームや工作キットの一部

1. 世界一周旅行(Reise um die Erde) 1884年
2. 帽子とりゲーム(Fang den Hut!) 1927年
3. オリジナルメモリー(original memory) 1960年代〜1990年頃 それまでにヒットした商品のいくつかの絵柄を使用しているアイテム。
4. 工作キットシリーズ(Ravensburger Habbys)1960年代

*ロゴ・写真とも『1883-1983, Hundert Jahre Verlagsarbeit』 1983年 Otto Maier Verlag Ravensburg社刊より

 


 



 

ニキティキとラベンスバーガー社


オットーマイヤー社(以下現在の社名 ラベンスバーガー社)はドイツでも有数の出版社。出版物やボードゲームの種類は数多く、ドイツを旅すると、駅のキヨスクやショッピングセンター、街の本屋や玩具店など、多くの売り場で青い三角のラベンスバーガー社のマークが目に入ってきます。毎年開催されているニュールンベルグの玩具見本市では、出版関係のホールで最大の二階建てブースを持っています。ブースでは新作のボードゲームや工作キット等のすべてを、各々若いスタッフが楽しいセールストークでアピールするため活気があり、営業スタッフは各々の顧客につきっきりで全新商品のコーナーを順に案内します。他にも、絵本、児童文学書、図鑑などなど、多彩なプログラムを展開し、ヨーロッパだけでなく世界中からのバイヤーが訪れ、毎年期間中は事前のアポイントなしでは、商談もできない賑わいを見せています。

二キティキとラベンスバーガー社の直接取引が成立したのは、彼らが木製玩具を取り扱い始めた1970年代の前半、たまたま アントニオ・ヴィターリ(Antonio Vitali)のシリーズがプログラムに加わった時期でした。木製玩具は量産が不可能な上、印刷物と違ってどうしても価格が高くなり、従来の顧客層相手に思い通りの成果が出せなかった時期だった事もあり、木製玩具に興味をもって取引を希望する遠い日本からの引き合いに彼らは関心を示しました。小さいニキティキが取引を要請するには大きすぎるラベンスバーガー社ではありましたが、彼らはニキティキの要望に応え、間もなく取引が始まりました。ヴィターリ・シリーズに加え、当時ブルーナの絵柄を使用した木製のパズル等もプログラムに加わっていました。一度に船荷が組めるような量の注文を出すのは、当時、小さな輸入会社のニキティキにはかなり無理がありましたが、ブルーナのシリーズなどを加え、それなりの数量の発注も次第に可能になり、毎年輸入量は増えていきました。船荷を少しでも大きくし、商品原価に対する輸入の横持ち費用の比率を下げるために、次第に紙のジグゾーパズルや絵本も一緒に輸入するようになったのは自然の成り行きだったと思います。 ニキティキはラベンスバーガー社の日本代理店ではなく、あくまで一つの取引会社の立場で付き合い、プログラムの中から自由に商品を選択できる関係であったことが、今日まで取引が継続できた理由と言えます。日本の総代理店としてラベンスバーガー社は不二商、そしてツクダを選び付き合ってきましたが両社とも業界から姿を消した現在では、株式会社 河田が日本総代理店の役割を担っています。


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1.  Toys Vitali カタログ 1960年代
2.  ヴィターリの動物パズル 
3.  ブルーナの木製パズル 赤ずきん 1970年代

*写真1-3『1883-1983, Hundert Jahre Verlagsarbeit』 1983年 Otto Maier Verlag Ravensburg社刊より


〈エルヴィン・グロネガー氏〉
ラベンスバーガー社と1972年来のお付き合いの中で、忘れられない方が幾人かあります。その中のお一人がグロネガー(Erwin Glonnegger 1925-)氏。1949年から1985年までラベンスバーガー社の中心になって活躍された方です。ゲームの研究では世界的にもその名が知られていて、ゲームに関する著作が何冊もあります。また1959年にメモリーシリーズを企画し、ロングセラーシリーズとなっています。グロネガー氏は現役時代の1980年代、出張で日本市場の担当者と一緒に来日されています。そのとき当社のハウスメッセ(池袋のミプロで開催)を訪ねて下さいました。スイス・ネフ社の創始者 クルト・ネフ氏とも交流があり、業界の屈指の有識者として多くの人達の尊敬を集めていらしたグロネガー氏は、家族や友達と遊ぶファミリーゲームの意義を説き、今日のファミリーゲームの普及の源を作った方だと思います。わたしたちも、その誠実なお人柄と、玩具、絵本に対する優れた見識に多くのことを学ばせていただきました。

〈ヘルマン・ブルーンス氏〉
2011年暮にラベンスバーガー社を去られ、新しい仕事を始められたブルーンス(Hermann Bruns)氏も忘れることができません。ニキティキのためにいつも尽力して下さいました。1986年、今の高校教師の仕事に意義を見つけられなくなったと、ラベンスバーガー社に入社。その後の活躍は目覚しく、まもなく社の重要な役職を得られました。営業として東欧圏の国々とアジアを受け持たれ、毎年来日される度にニキティキのために、さまざまな便宜を図って下さったことは忘れられません。ひとつの取引先としてニキティキが大会社のラベンスバーガー社と仕事を続けてくることができたのも、オリジナルのキンダーメモリーが今日生き残ったのも、日本語版工作絵本3冊が出版までこぎつけることが出来たのも、ブルーンス氏の応援があったからだと思います。


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1-4.  グロネガー氏の著書
5.  エルヴィン・グロネガー氏  © 2005 spielbox.de
6.  ヘルマン・ブルーンス氏





 


ジグゾーパズルがラベンスバーガー社の主力商品になるまでを語るグロネガー氏のインタビューがありました。
お話の内容を日本語にしてみました。(動画の再生には Windows Media Playerが必要です)





Interview mit Erwin Glonnegger (訳:横山洋子)
http://millionenpuzzle.com/interview.php 

当時、ドイツではまだジグソーパズルがあまり知られていませんでした。
そこで同僚と2人でロンドンに行ってみると、ガイダーマンというメーカーがあって、数百万ものパズルを販売していることを知りました。
それを見て、これはドイツでもやってみる価値がある、ということになりました。
ところがそうすんなりとはいきませんでした。
話をしてみても、上司は「こんなあきれたもの、今までみたことがない。売れるわけがない」と、とりあってくれない。
「まず僕を納得させてみなさい」と言うので、色々と努力したわけです。
すると、努力は報われ、まず上司がパズルの虜になり、積極的に取り組んでくれるようになりました。
小売店のほうも、「メモリー」などの商品の評判がよかったので、我々が新しい商品をもってくるのを待っているような状態でした。
そして、パズルが店頭に置かれるようになると、本来、子どものためのおもちゃを購入しにきた大人が自分たちのためにパズルを買っていく、という新しい現象が起きたのです。
「子どものためのお店」などという名前だった小売店が「遊びの専門店」と呼び名を変えるようなこともありました。
次に問題となったのは製造方法でした。自分たちで製造ができるかどうかです。
最初はとても苦労しました。なかなかうまくいかなかったですね。
そのうち、偶然、東ドイツにあったチョコレートのパッケージを作る工場に出会いました。
そこで見つけたシステムがうまくいきそうだったので、こちらに持ってきてパズル用の機械を作りました。
その時の機械はいまでもメッケンボイレンにあって動いていますよ。鉄製の装置だったのですが、職人はまず鉛筆でピースの形を描いていきました。
大変だったのは、ひとつとして同じ形のピースがないように、注意深く描いていかなくてはならなかったこと。しかも、とても正確でなくてはならなかった。
微塵のくるいも許されませんでした。

ピースをばらばらに外していく作業にも時間がかかりました。 以前、「知恵の輪」のような遊びでは、女性がひとつひとつ、バラバラにしながらパッケージにつめる作業を行ったものでしたが、注文数の多いパズルとなるとそうもいかない。
ちょうどそのころ、オランダでパズルを一枚の板からはずす機械が開発されました。
細い針をいくつもつけた棒を回転させ、それを使ってピースをはずしていく装置でした。
ところがこの作業をするとひどいほこりが立つ。
そこで掃除機をとりつけて、回転させながらほこりを吸っていきました。
こんなふうにして、少しずつ改良が重なり機械化が進み、昔は考えられないほど、今では何でも自動でできるようになりました。















 

ラベンスバーガー社の本

子ども向け、青少年向けの出版に力を注いできたラベンスバーガー社は幼い子ども向けの絵本を何種も出版してきました。その中からニキティキはディック・ブルーナ(Dick Bruna)、アリ・ミットグッチ(Ali Mitgutsch)、ジョン・バーニンガム(John Burningham)などの絵本を順に日本で紹介してきました。

特にミットグッチ氏の子どもへのやさしい観察を絵に表した、字のない絵本シリーズ(写真1-5)は、一番古い「街(Rundherum in meiner Stadt)」は1968年初版、ほかも1970〜80年代の発刊から現在まで出版が続けられ、その人気を保っています。一年の大半を旅しているといわれるミットグッチ氏は、世界一大きな絵本のシリーズからミニ絵本シリーズまで、ユーモアと詩情あふれるイラストで、楽しい子どもの世界を描きだしています。本を手にすると 彼の子どもを愛する気持ちが伝わってきます。子どもだけでなく、大人もついつい微笑んでしまう楽しいイラストいっぱいの絵本は、長年重版され、世界中で愛され続けてきました。

ラベンスバーガー社では工作絵本も数多く出版してきました。当初は小さい冊子でしたが、今ではA4版のハードカバーの本がその大半を占めます。その中で異彩を放っているのがミュンへンで活躍しているミヒャルスキィ(Ute & Tilman Michalski)夫妻の工作絵本シリーズです。 テキストがドイツ語なので、日本での普及が難しく、いつも残念に思っていました。そこで、ニキティキでは創立35周年記念行事として2009年、その中から3冊を選び日本語版の出版を達成しました。印刷、製本はすべてラベンスバーガー社に依頼。そのためにオリジナルの本に負けないしっかりした工作絵本が出来上がりました。社内での翻訳作業やレイアウトには想像以上の時間がかかりましたが、その作業の中で、スタッフは工作遊びの素晴らしさを再認識しました。この3冊を通じて、ものづくりの楽しさを一人でも多くの子ども達が味わってくれることをニキティキは願っています。





1「街」1968年 2「村」1970年 3「海」1971年 4「山の中」1980年 5「大きな街」1988年

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1-5   ミットグッチの字のない絵本 1968年〜  24 x 32cm
6,7   オットーマイヤー社時代の工作絵本(Ravensburger Hobbybuecher)1968年  18.5 x 18.5cm
8,9   オットーマイヤー社時代の工作絵本(Basteln mit Kindern)1973年  18.5 x 18.5cm
10-12  ミヒャルスキィ夫妻の工作絵本 日本語版 2009年 21 x 29cm













ラベンスバーガー製品のデザインの移り変わり


チェーンストア型の玩具大型量販店が出現し始めると、ラベンスバーガー社のパズルやゲームのデザインも次第に現在の顧客の嗜好に合わせたものに変化してゆき、ニキティキの求める世界から少しずつ遊離。その傾向は残念ながら、現在も続いています。このような商品変化は、量販店での販売が全体的な売り上げの大部分を占めるため、一般受けするキャラクター物や甘い図柄がプログラムの大半を占めるようになったからではないかと考えられます。売り上げはデータとして管理され、単純に数字で判断する傾向に流れるのは大企業の運命なのでしょうか。日本だけでなく、ドイツにも現在のデザインの傾向を残念がる取扱い業者や幼稚園の先生方も多いですが、彼等はあくまでも少数派なのでしょう。


■ ピエロ → クラウン 

1960年代〜87年 1988〜2006年 2006年〜


■ クイップス 

1970頃〜89年 1990〜99年 2000〜06年 2006年〜


■ パネルパズル くるま 

1970年代前半頃 1993〜97 1997〜2010年





 

 

 

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