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Babette Schweizer/バベット・シュバイツァー社
ドイツ


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 ・錫のミニチュア製造のはじまり  

 ・バベット・シュバイツァー社の歴史  

 ・フィリグランのクリスマスオーナメント

 ・クリスマスツリーの到来  

 ・いろいろな錫のミニチュア 




錫のミニチュア製造のはじまり

バベット・シュバイツァー(Babette Schweizer、以下BS)社はドイツ、バイエルン州にあるアマー(Ammer)湖畔のディーセン(diessen)という、中世の趣きを残す歴史ある街の高い丘の上に建っています。ここに本拠地を構えてからすでに200年以上。歴史ある古色蒼然とした建物は、1798年の夏、初代アダム・シュバイツァーが購入し、以来シュバイツァー家により守られてきました。この建物には現在もバベット・シュバイツァー社製品を販売するお店と喫茶室、そして工房があり、6代目社長夫妻の住まいもこの建物の中にあります。近くにある教会やカトリックの信仰はバベット・シュバイツァー社の歴史と深いかかわりを持っています。

18世紀頃、アマー湖のあたりは修道院が多く、巡礼のメッカでした。また、古くから鋳物業が営まれており、すでに1740年ごろ、小さな鋳物工場が巡礼者のための十字架やロザリオやお守りの製造を行っていたという記録が残っています。この環境のなかで1796年アダム・シュバイツァーは、カトリックの信者にとって欠かせないロザリオや十字架、護符(キリスト教のお守り、アミュレット)等を作る工房を設立しました。カトリック色の濃いバイエルン地方ならではと言えるでしょう。BS社の作る錫の護符は、金や銀で作られたものほど高価ではなかったので、18世紀の不安定な世の中で神に救いを求める貧しい民衆たちに格別の人気を博しました。初代アダムが当時ディーセンに散在していた小さな工房から型を買い集め、豊富な鋳型を所有した事もBS社の成功の秘訣となりました。今日まで営々と6代にわたって伝統にもとづいた錫の飾りやミニチュア作りに携わってきたBS社。鋳型に溶かした錫を流し込み、冷えて固まったら取り出し、細部を整えて彩色するというこの地の錫のミニチュアの製造法を守った、一つずつの手作り作業の手順は200年前とほとんど変わっていません。

現在バベット・シュバイツァー社は1972年、6代目社長として家業をついだグナ・シュバイツァー・セニョール (Gunna Schweizer sen.) が経営しています。6代目は1942年6月7日、ブルーノ・シュバイツァー (Dr. Brunno・Schweizer) とアイスランド人の母 (Thorbjoerg Jonsdottir Schweizer) の間に生まれました。長男にグナ・シュバイツァー・ジュニアと命名後、自身はグナ・シュバイツァー・セニョールと名を改め、後記のフィリグラン・オーナメントの製作をはじめ、伝統ある錫鋳造の技術を大切に守り、世界の愛好家に伝統のある錫の作品を届け続けています。

200年の歴史を持つ建物の1階にある、観光客をターゲットとした自社製品を中心として販売する店と喫茶室は、6代目が再婚したカリン(Karin)夫人が中心となっています。同じ建物内にある工房には需要にあわせ十数人の職人が型作りやハンダ付けなどの作業に携わりますが、色つけなどの作業は約30人の外注職人が受け持っています。

ミュンヘンの街中にある直営店は、2008年以降は、7代目のグナ・シュバイツァー・ジュニア (Gunna Schweizer jr.)が責任者。自社の錫製品に加えイギリスをはじめ、世界のミニチュア製品を数多く揃え、ミュンヘンを訪れる世界各国からの観光客にも人気があります。彼は、14世紀から続くミュンヘンのマリエン広場(Marienplatz)で開かれるクリスマス・マーケットにも毎年出店しています。6代目の前夫人、7代目の母でもあるイルゼ・シュバイツァー(Ilse Schweizer)は長年ミュンヘンのマックスブルグ通り(Maxburgstrasse)にある直営店を受け持ってきましたが、今では一家と同じ街ディーセンに住み、家族の一員としてミニチュア博物館の設立を目指して頑張っています。


◎グナ・シュバイツァー・セニョールが工房を紹介している動画は →コチラ
 (www.reisemagazin.tvより TV im Web UG 制作/ドイツ語)



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1 ディーセンのアマー湖
2 バベット・シュバイツァー社 社屋
3 6代目グナ・シュバイツアー・セニョール
4 カリン・シュバイツアー
5 社屋にある工房
6 喫茶室
7 ミュンヘンの直営店
8 7代目グナ・シュバイツアー・ジュニア

 





バベット・シュバイツァー社の歴史

1780年

バックルや指輪の製造(鋳造)を手がけていた職人フランツ・ノイメール (Franz Neumair) が、教会の左官工であったミヒャエル・シュバイツァー (Michael Schweizer) の娘、テレーゼ (Therese) と結婚。

 

1796年

シュバイツァー社 (Schweizer) 社の 創業年。ノイメールの妻テレーゼの甥アダム・シュバイツァー (Adam Schweizer) は、ノイメールの型を引き継ぎ工房を設立。ロザリオ・十字架、祭壇の飾り、アミュレット(ペンダントのようなお守り)などを作りはじめる。

1798年

アダム・シュバイツァー結婚。妻モニカ (Monika) と民族衣装をまとった2人をモチーフとした作品が現在も残っている。(写真1)

1812年

アダム・シュバイツァーの工場に、ピューター(錫とアンチモンの合金。かつては錫と鉛だった)で器物製造の修行を終えたヨゼフ・ラートゲーバー (Joseph Rathgeber) が加わり、よきパートナーになる。社名もシュバイツァー&ラートゲーバーに変更。後にヨゼフはアダムの娘、ヘレーネ (Helene) と結婚。

1840年頃

はじめてのクリスマスモチーフのアミュレットを製作。1850年ころのカタログには、そのヴァリエーションとして54種もの十字架をかたどったアミュレット(ペンダント型のお守り)が掲載されている。

1848年

アダムが亡くなり、アダムの息子、アントン・シュバイツァー (Anton Schweizer) が父の後を継ぐ。主に金属の彫板を中心に製作活動を続けていたアントンは、父譲りの才能で新たなデザインを生みだした。しかしどちらかというと芸術家としての感性を持つアントンと、商売に長けていたヨゼフ・ラートゲーバーとは意見の異なることもあった。

1867年

アントン・シュバイツァー逝去。
そのころアントンの息子のアダム・シュバイツァー・ジュニア(Adam Schweizer jr.)はミュンヘンの工芸学校の学生だったために、アントンの妻、バベット・シュバイツァー (Babette Schweizer) が仕事を引き継ぐ。やがて学校を卒業したアダム・ジュニア は家業を継ぎ、作品を展覧会に出展し、高い評価を得るようになる。

1875年

シュバイツァー&ラートゲーバー社は2社に分かれる。
この頃より、正式にバベット・シュバイツァーという社名になる。

1896年

バベット・シュバイツァー逝去。但しバベット・シュバイツァーの社名はそのまま引き継がれ現在に至る。

1914年

アダム・シュバイツァー・ジュニアが逝去。その後の約5年間、BS社は閉鎖された。

1919年頃

第1次世界大戦に出兵していたアダム・ジュニアの長男、ブルーノ (Bruno) が戦争から戻り、会社を再開。

1930年

ブルーノの兄妹のウィルヘルム (Wilhelm ) とアニー (Anny) が会社の運営に参加。ブルーノはもともとドイツ言語学を学び、アカデミックなバックグラウンドがあったので、シュバイツァー家の歴史を調査し一冊の本にまとめた。郷土研究家でもあったブルーノはディーセンやアマー湖に関する著書を多く残し、また著作のかたわら、錫細工のための図柄を数多くデザインした。妹のアニーはそれらの商品化に力を貸し、また自身でも8メートルにもおよぶ十字軍の行列を作成、他にも春夏秋冬シリーズ等多くのデザインを手掛けた。アニーの多くのシリーズは現在でもプログラムに残っている。(写真4 やすらぎのひととき は1938年ごろのアニーの作品)
第二次大戦中、シュバイツァー社は軍の仕事に携わる。

1972年

ウィルヘルム・シュバイツァーはミュンヘンにあったピューター器の会社 "Hiedl & Son" を引き継ぎ、別会社を設立。一方、6代目の グナ・シュバイツァー・セニョール (Gunna Schweizer sen.) はミニチュア関連と旧ラートゲーバー社の仕事を引き継ぎ現在に至る。

1976年

7代目のグナ・シュバイツァー・ジュニアはミニチュアの卸販売の会社、Babette Schweizer Miniaturen を設立して独立。この会社は自社の錫製品に加え英国をはじめ世界のミニチュアを取り扱う商社として活動。現在に至る。

2008年

ミュンヘンの直営店を長く運営してきた6代目の元夫人、イルゼ・シュバイツァー (Ilse Schweizer) は、店の運営を息子のグナ・シュバイツァー・ジュニアに託した。





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1  民族衣装をまとった初代アダムとモニカの像
2  クリスマスのモチーフとしては最も古いと言われているアミュレット 1840年頃
3  フィリグラン・クリスマスオーナメントのひとつ。1850年頃。
4  アニー・シュバイツァーの作品、「やすらぎのひととき(小)Feierabendhaus」 1930年頃
5,6 現存しないディーセン小さい鋳造工房で1860年から1890年の間に作られたものの型を20年ほど前にBS社が入手し、製作



フィリグラン(filigrane―線細工)のクリスマスオーナメント

設立当初は宗教用品から始まった錫製品製作も、200年経た現在は錫のクリスマスオーナメントや繊細で美しいミニチュアで世界的に知られています。フィリグランオーナメント製作のきっかけは19世紀半ばにさかのぼります。
当時ディーセンは夏の避暑地としてバイエルン皇太子の家庭教師たちに愛されており、シュバイツァー家も家を宿泊場所として提供するなど、彼らと親交を持っていました。その中で王家のクリスマスツリーのアイディアを求められることもあったようです。この当時クリスマスツリーはまだ宮廷文化にしか見られない珍しいものでしたが、民衆にも徐々にひろまりつつある時代でもありました。人々が新しい装飾を求めていたこともシュバイツァー社がクリスマスオーナメントをつくるきっかけとなったのです。そこで生まれたのが吊りランプをヒントに作られたフィリグランの錫製オーナメントクーゲル(Zinn-Christbaumkugel)でした。1840年頃にはじめて世に出たオーナメントクーゲルはおそらく王家のクリスマスツリーを美しく飾ったことでしょう。そしてこのオーナメントはシュバイツァー社の代表的な商品として世界中に知られるようになり、多くの愛好者を生みました。
フィリグランの錫製クリスマスオーナメントはすべて手作り。一つずつ鋳造した平たいパーツ数は、オーナメントによっては20以上にものぼり、それを手作業で一つずつ組み立ててゆくために製作には膨大な時間がかかります。当初に比べると工具などは進歩しましたが、このオーナメントの製造は創業当時とほとんど変わっていません。鋳型も一部はオリジナルを使用しています。このシリーズを作る技術は代々受け継がれてきて、特に反射板を流し込む技術がポイントです。現在ではバベット・シュバイツァー社でしか作っていません。

現在このオーナメントの技術を駆使してフィリグランのクリスマス・オーナメントを製作できるのは6代目のグナ・シュバイツァー・セニョール社長のみです。受注生産の形で世界の愛好家や美術館の需要に応えています。後継者の育成が大きな課題ですが 社長は、錫鋳造の技術を修得した7代目、グナ・シュバイツァー・ジュニアや再婚後に恵まれた三児が、社の技術を受け継ぎ、社を次の世に残してくれ事を確信しているといつも語っています。


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1 立体的に組み立てる前の状態
2 組立の様子
3 でき上がったクリスマスオーナメント・フィリグラン







1 現在も受注生産で製作しているクリスマスオーナメント・フィリグランの一部








 
クリスマスツリーの到来 ー バベット・シュバイツァー社の資料より− 翻訳:横山洋子


歴史あるバベット・シュバイツァー社には古い資料もたくさん保管されています。
クリスマスにツリーを飾る習慣がドイツ国内に広まっていった様子を綴った下記の文もそのうちのひとつ。
1900年の新聞記事だそうです。



1801年までベルリンで過ごした北ドイツ出身の銅板彫刻家、チョドヴィエッキの作品に、中流階級の家庭でクリスマスを祝う光景を題材にした銅板画が2点あります。
ひとつは「小さな子どもたちのためのクリスマスプレゼント」というタイトルで、1776年に発行された小冊子の表紙になったもの。沢山のプレゼントが置かれたテーブルの上に、高さの異なるロウソクがピラミッド型に並んでいる様子がわかります。(図1)

もうひとつの作品は1799年のもので、こちらは大きなピラミッド型の燭台にロウソクが灯っています。このようなピラミッド型の燭台は19世紀のベルリンで一般的に使用されていたようで、ザクセン地方の燭台よりもクリスマスツリーの形に近い形をしていました。(図2)
ベルリンあたりの中流階級の家庭では、すでに18世紀の後半、針葉樹をローソクで飾っていたようです。W.Schwartz は著書 『Indogermanischer Volksglaube (印欧語族の民間信仰)』のなかで、「ベルリンにある自分の家ではクリスマスツリーを飾る習慣が18世紀からあった」と、記しています。ただし、当時は在来のマツの種類、カイネという木が使われたようです。その後は外来のトウヒ(エゾマツ)が使用されることも多くなりましたが、19世紀初めの上流階級、特にフランスからの亡命家族では、クリスマスツリーを飾る習慣はなかったとされています。それに対して、アマデウス・ホッフマンが1816年に書いた小説『くるみわりとねずみの王様』には次のように書かれています。「もみの木の枝には金色や銀色に塗られたリンゴ、砂糖漬けのアーモンド、色とりどりの飴やお菓子が飾られていて、まるで蕾や花びらのようだ。枝々の間からは数百もの小さな明かりが輝いて見え、なんとも美しい。星のようにきらめきながら、ツリーの飾りを召し上がれ、と子どもたちを誘っているかのようだ。」

ドイツをさらに北上していくと、1796年、ヴァンズベッカー城に大きなクリスマスツリーが飾ってあった記録が残っています。記録によれば、家族が贈り物を交換する場面に、ヴァンズベッカー家に仕えていたマティアス・クラウディアスとフリードリッヒ・ペルテスも参加しています。ペルテスはクラウディアスの娘に心惹かれたようで、次のように書かれています。「ペルテスはクラウディアのことを、その晩、そこにいたどの娘よりも美しいと思った。それなのに、彼がクラウディアのために用意してきた贈り物は、彼女の妹のために持ってきたプレゼントと比べて見劣りした。そこでペルテスは、もみの木の、手が届かないほど高いところに飾られていた美しく金色に塗られたリンゴをなんとかもぎとり、周囲から歓声がわくなか、顔を赤らめながら意中の娘に差し出したのだった。」(図3)

北ドイツの地方によっては、19世紀後半になるまでクリスマスツリーを飾る習慣が全くなかったようです。バルト海に面するダンツィッヒという町では1815年にプロイセンの役人や将校たちが持ちこんだのがはじまり、とされています。また、カトリック教徒の多いライン地方には、移住してきたプロテスタントの人々によって伝わったという話があります。ライン川をオランダの方向へ沿っていくと、ヴェーゼルという町がありますが、一般庶民の間では19世紀後半でも聖ニコラスの祝日を祝うことが中心で、クリスマスツリーの習慣は上流階級にだけのものだったようです。
全体的に、カトリックの地方のほうがクリスマスツリーを飾る習慣の定着が遅かったようです。たとえば南部のバイエルン地方に残された1855年の資料には、「クリスマスツリーやプレゼントの習慣はバイエルンの田舎では云うまでもなく、町でも知られていなかった。少なくとも田舎でクリスマスツリーを飾る習慣は、19世紀の終わりになってようやく広まっていったようだ」と、されています。

オーストリアのグラーツには1840年代に、あるプロテスタントの家族がクリスマスツリーの習慣を持ちこんだようで、しばらくはプロテスタントの行事とされていたのが、やがて一般的に広まっていったようです。けれども、その周辺地域では第一次大戦まで知られていませんでした。
ドイツ人とスラブ人が混在していた地域では、クリスマスツリーはドイツのシンボルとして考えられていました。
一方、ボヘミア地方では次のような資料が残っています。1863年のものです。「チェコ人の多くの家庭ではトウヒやもみの木に明かりをつけ、紙の飾りやお菓子、洋服なども飾ったりしている。プラハ周辺では、飾りつけた木を部屋の隅のまっ白なテーブルクロスをかけた食卓に置き、食事の前と後には家の長がその前にひざまずいて祈りをささげ、みんなで歌った。」

プロテスタントの信仰が盛んな地域では、『アドヴェント(待降節)の木』という習慣が定着していきました。これは、待降節(キリスト降誕を待ち、その準備をする期間)に入ると、小さな木を植木鉢に入れ、毎日、または日曜日ごとにロウソクの数をふやしていくという習慣です。すでに飾ってあるロウソクにも毎回火を灯し、ロウソクを増やすたびに旧約聖書からの救い主に関する抜粋が印刷されているカードを読み上げ、そのカードも木に飾っていき、クリスマスの夜には光輝くクリスマスツリーが出来上がるのでした。(図4)



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1 1776年に発行された小冊子より、銅版画"小さな子どもたちのためのクリスマスプレゼント"
2 ピラミット型の燭台
3 銅版画"ヴァンズベッカー城の大きなクリスマスツリー"1796年
4 銅版画"アドヴェントの木"1840年頃







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