Decor/デコア社
スイス

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 ・スイス・デコア社について  

 ・シュタイナーの影響 

 ・スイス・デコア社の美しいジグソーパズル  

 ・スイス・デコア社の村を訪ねて 

 ・スイス・デコア社製品の紹介 




基本データ

2007年 4月作成

追記ー1

2009年6月作成




スイス・デコア社について


スイス・バーゼル(Basel)からトラムで30分程の美しい村、ドルナッハ(Dornach)はルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 註1)が創始した人智学協会の本拠地として知られ、丘の上にはシュタイナーの設計に基づいて1928年に完成した世界的に有名なゲーテアヌム(Goetheanum 註2)がそびえたっています。デコア社はこの地で生まれました。
デコア社の創設者、アルフォンス・ブランク(Alfons Blank)氏は1940年までホテル用のリクライニングチェアを製造する仕事をしていました。しかし、戦争の影響で取引先のホテルの多くが閉鎖に追いこまれたり、亡命者や抑留者のための宿舎として明け渡さなければならなかったりした為、椅子の需要は激減しました。そこで彼は新たに玩具作りを始めます。当時彼の手がけた玩具はシュタイナーの思想である人智学の基礎に基づいた、教育的にも価値のあるもので、そのアイテムの多くは現在でもスイス・デコア社及びドイツ・デコア社(後述)で作り続けられています。
彼が、初めての作品“ 木製のアクロバット人形 ”をバーゼルの玩具店に持ち込んだところ、思いがけず顧客の反応がよく、やがて玩具を生業にできる程の注文を受けるようになり、スイスとはいえ厳しかった戦時を彼は何とか乗り越えることができたといわれています。戦後、ブランク氏は玩具メーカーとして本腰を入れ木製玩具の生産に取り組みました。シュタイナーの思想を取り入れた彼の商品群は、大きいものでは木馬や人形の家、お店やさん、全長160cmになる4両の機関車セット、人形用ベット、小さいものでは足に車のついた動物やアヒルの家族、手人形など多岐に渡ります。
1960年代後半には、息子の一人、ヨハネス・ブランク(Johannes Blank 1920-1996)氏が兄弟と共に会社を引き継ぎます。そして1983年には従業員12人が終日生産に従事するほどに成長しました。独特の絵柄の木製ジグゾーパズルやはめ絵は1971年からニキティキを通して日本市場での入手が可能になりました。この2代目のヨハネス・ブランク氏は1992年までデコア社を経営しますが、病に倒れ、やむなく会社を手放す事態に追い込まれます。周りの人達がデコアの玩具がこのまま消えてしまうのかと危惧していた1993年、『DECORはこれからもこの村に残して、村の特産物として生産を続けるべきだ。』と立ち上がったのがブランク氏の友人のポール・トレヒスリン(Paul Traechslin)氏でした。経営権を買い取った彼は、ドルナッハの家具職人で、自身の工房で助手や息子たちと家具や建材の生産に携わっていましたが、年金生活に入るのを機にオーナーを退き、新たなる人生の課題としてデコア社商品の生産を請け負う決心をしてくれたのです。こうしてデコアの玩具の存続が可能になりました。
1999年、息子のクリスチャン・トレヒスリン(Christian Traechslin)氏が会社を引き継ぎ、社名もトレヒスリン家具製造所(TRAECHSLIN SCHREINEREI)となり第一ラインで家具、第二ラインでデコアの木製玩具を生産する体制に変わりました。息子たちが経営を引き受けた後も、トレヒスリン氏は、生産部門に残り、中途半端なもの作りはできないと手間を惜しまず、はめ絵や人形の家のつくり方に改良を加え、最近は玩具の仕上がりがさらに美しくなってきています。家具工房の一部にデコアの製作コーナーも出来、最新の切り出し工具も購入、仕事が込み合うと息子たちも家具作りの合間に玩具の生産を手伝っています。木製ジグゾーパズルの彩色などは、村の女性たちがパートタイマーとして、また自宅での内職(ハイムアルバイト)として手伝っています。美しい環境に恵まれたこの小さい工房では時間はゆったりと半世紀以上前のテンポで流れ、心豊かなもの作りの世界が息づいています。

参考文献:「100 Jahre Schweizer Spielzeugfabrikation. Zum 125-Jahr-Jubilaum der Firma Franz Carl Weber」
      著者/LAURA.M. Knuesli・Ruth Holzer-Weber 出版社/Gva-Vertriebsgemeinschaft 初版/2007年1月


●ドイツ・デコア社について
1957年、デコア社の全プログラムをライセンス契約で生産するドイツ・デコア社が創設されました。その初代社長エーベルハルト・シュミット(Eberhart Schmidt1923-)氏は、以前スイス・デコア社で生産に携わっていた人です。彼は本家のデコア社のデザインや企画をドイツで大きく展開し、木製玩具業界にデコアの名を広めました。会社の規模もスイス・デコア社より大きく、ヨーロッパだけでなく、東欧を除くEU各国、スイス、ノルウェー、USA、日本など、輸出も幅広く手がけました。ニュールンベルグの玩具見本市にも1965年以降、現在まで毎年出展しています。ただその商品は、デザインは同じでも生産過程で量産のための合理化がなされるため、オリジナルのデコアの玩具とは一味違うものになりました。また、ドイツ・デコア社は会社の理念として身障者が仕事に携わることに意義を認め、25名の社員のうち30−40%が身障者という時期もありました。現在アイテムの多くが本社の指導のもと、ドイツの身障者の働く工場で生産されています。
1975年、ドイツ・デコア社とスイス・デコア社のライセンス契約は終了します。その後、ドイツ・デコア社は独自に開発をすすめ、木琴や鉄琴などを中心に160以上のアイテムを製造しプログラムを充実させています。1999年にはシュミット氏の娘フランチスカと娘婿ヴォルフラム・ハイル(Franziska,Wolfram Heyl)夫妻が会社を引き継ぎましたが、2007年に84歳となった初代社長シュミット氏は、今でも工場の傍らでドイツ・デコア社の仕事を見守っています。

註1:ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 1861-1925)
オーストリア出身の神秘思想家。ゲーテの研究を通してアントロポゾフィー(人智学)という独自の世界観に基づいた思想を確立。人間が自分の力で精神世界に入っていく方法を見い出す彼の研究は教育、芸術、医学、農業、建築など多方面に渡っており、中でもユニークで独特なカリキュラムが実践されているヴァルドルフ学校(Waldorf−Schule)は世界中でよく知られており、日本でも注目されている。

註2:ゲーテアヌム
名称は「ゲーテの館」という意味。人智学協会の集会所、劇場として建設された。この建物は当初木造だったが1922年の大晦日に放火により焼失。現在見られるこの第2ゲーテアヌムはシュタイナーが最晩年に模型を製作、それを基に彼の死後1926年から1928年にかけてコンクリートで再建されたもの。




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2
3
4

1.
ヨハネス・ブランク氏
2.
材木の前に立つポール・トレヒスリン氏
3.
デコアの工房(2006年)
4.
ゲーテアヌム




追記ー1

トレヒスリン氏の製作を引き継いだ、家具工房について

 
 


2007年11月、トレヒスリン氏から、仕事を引き継ぐはずの彼の息子さんが病気になってしまったため、今まで通りの製作が不可能になってしまったという知らせが届きました。 彼の工房での生産が順調に流れ始め、製品のレベルも安定し始めていただけに、ニキティキはこの知らせに衝撃をうけました。しかし、デコア商品を愛するファンのために、トレヒスリン氏は自分の仕事を引き継いでくれる工房をちゃんと探してくれていました。

スイスには1960年に創設された保険制度に従い、多くの知的障害児のための特殊学校や機関があります。彼らが学校を卒業後、社会の一員である認識を持ち、自分の力で生活基盤を築いていけるような職業訓練の機関が多く設けられているのです。トレヒスリン氏はそんな組織の一つであるチューリッヒの家具工房を選び、新しくデコア社商品を製作してもらうことを決めたのです。
そこは、自営の農場、Bioのパン屋やカフェの経営もしている団体です。この組織は個々が持つ長所と短所を認めながら人間性を伸ばしていくという、全体的な人間像の捉え方や、自然への尊厳を提唱するアンソロポゾフイー(人智学)の考え方に基づき、精神障害や知的障害を持った人々が充実感を持って働き、暮らしていけることを目指して、130にも及ぶ職業訓練プログラムをもって、障害者を支援しています。
デコア社の製品を引き継いで制作をしてくれる家具工房では、指導者のもとで、工具や機械の使い方を学びながら、毎日10〜15人のメンバーが働いています。自然に対する責任を重視する理念から、材質はFSCやPEFCの森林認証を受けた木材を使用し、ラッカーや色素などもEN71-3規格に適合したものを使っています。はめ絵の材質もスイス森林組合から調達した菩提樹です。
トレヒスリン氏はこの工房に通い、彼等にデコアの製品の作り方を徹底的に伝授したのです。
2008年10月に日本に届いたはめ絵は、デコア社らしい風合いが変わることなく残されており、トレヒスリン元社長の製作理念と技術がきちんと継承されていることを物語っていました。時間はかかりましたが、トレヒスリン氏の誠意と努力でデコアの商品は再び市場によみがえったのです。


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1.
VZE の家具工房
2.
VZE で作られているはめ絵(うさぎ)






シュタイナーの影響

 
 

デコア社の創始者 アルフォンス・ブランクはシュタイナーの理念に大きな影響をうけた。
ブランク氏が作る玩具は、製造技術、スタイル、選択する玩具の種類などにシュタイナーの影響が色濃く現れている。例えば、木目を際立たせるために使うBeizenという着色方法を選んでいることや、子どもたちの想像力を呼び起こし育むためのシンプルで自然界にあるものに近いフォルムなどである。
ルドルフ・シュタイナーは玩具についてこう言っている。
「わたしが特に大切に思うのは、子ども自身が習熟していける動く玩具であること、つまり停止しているままではなく、子どもたちが関わっていくことを覚えることのできる玩具である」
この言葉を尊重し、スイス・デコア社では揺り木馬、乗って移動できる車輪つきの木製動物や引っ張り玩具が大きなウェイトを占める。
シュタイナーは積み木に対して「子どもの創造力に出来上がった輪郭を強制する」との理由から反対意見を持っていたと言われている。そのため、スイス・デコア社のプログラムには一般的な積み木が入っていない。





スイス・デコア社の美しい木のジグソーパズル


表面をきれいに仕上げた厚さ3ミリ程の木の板を10枚重ね、固定します。一番上の面に型をあてて切るラインを写し、そのラインにそって重ねたまま電動糸鋸でゆっくり切断。こうしてパーツが出来上がります。そのパーツは10個の箱に一ずつ振り分けて行きます。一つの箱に1枚のパズルのパーツがすべて揃ったら、それを彩色用の枠に並べます。彩色の作業は、自分の担当の絵柄を熟知したベテランの村の人たちが、それぞれ自宅での内職(ハイムアルバイト)で請け負っています。裁断されたパーツを一つずつ手作業で彩色し、独特のグラデーションは指でこすって色をぼかしています。最後に水性ラッカーを吹き付け完了。こうして昔と変わらない製法で作られた、ナイーブで印象的な独特の絵柄のジグソーパズルが完成します。


1
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3
4
5

1.
重ねて裁断
2.
細かい部分を裁断
3.
パーツの彩色
4.
指でぼかす
5.
セッティングしながら、指で色調整





スイス・デコア社の村を訪ねて


ドルナッハのデコア社を初めて訪ねたのは1987年、訪問先のネフ社に2代目のヨハネス・ブランク社長が迎えに来て下さいました。木製玩具でも考え方や生産方法が両極端に分かれるネフ社とデコア社ですが、ネフ氏とブランク氏の人柄には共通点があり、初対面にもかかわらずお二人の対話は盛り上がっていました。お互いが敬意をもって相手と接していることが伝わってくるとてもよい雰囲気だったのが印象的でした。

実はニキティキは1971年に7つのメーカーを選んで仕事を始めたのですが、その中の一つがスイス・デコア社でした。1971年に制作したNTの初めてのチラシに取り扱いメーカーとしてデコアの名が掲載されています。1970年秋、帰国を控えた私は、選んだメーカーを北から南に順に訪ね日本への輸出をお願いする旅に出ましたが、鉄道を利用しての一人旅だったので、デコア社までは回れませんでした。デコアの玩具との出会いは1965年にさかのぼります。はじめてチューリッヒの玩具店パストリーニに行き、沢山の素晴らしい玩具の中からお財布の中身と相談ながらやっと選んだ二つの玩具の一つがデコアのはめ絵だったのです。1971年日本への輸出をお願いしたのも、その後輸入を続けたのも全て書面だけの交渉でした。ニュールンベルグの玩具見本市への出展をしないスイス・デコア社は16年もの間、面識がないまま自分たちの玩具をニキティキへ送り出してくれていたのです。これは多くのメーカーと付き合ってきたニキティキにとって、かなり稀有なケースです。

初めてお会いしたブランク氏の車に同乗させて頂きネフ社を出てから1時間半ほど走ってドルナッハのデコア社の工房へ到着。2階建ての小さな工房〈写真-1〉には、製作機械が並び、はめ絵の切り抜き作業が行なわれていました。3.5cmの厚みのある菩提樹の無垢のブロック(3.5x5x7cm)の上面部にモチーフの輪郭が転写されていて,その線にそって、一つずつ電動糸鋸で切りぬいてゆきます。〈写真-3〉3.5cmの厚みを、色々な形に垂直に切り目を入れて抜き出してゆくのは簡単ではありません。もし切り目が垂直でなく少しでも斜めになったら、モチーフはブロックから取り出せなくなります。簡単そうで技術のいる作業です。切り抜いたモチーフの表面を磨き、色をつけて乾かし、ラッカー仕上げをしてもう一度乾燥させる。この工程を終了するまでに一つのブロックに何回人の手がかかわるかと数えると、はめ絵の価格の高さも納得できます。一つのブロックから切り出したモチーフは同じように見えても、そのブロックにしかきちんとはまりません。生産の過程で、その事をいつも注意しなければなりません〈写真-4〉。ジグソーパズルの制作方法もその経過を実演して下さいました。また見るからに熟練工の職人さんはノアの箱舟の動物の仕上げをしていました。(小さな工房は、日本の木工所に通じるものがあり、倉庫の棚にはカラフルな機関車がつまれ、出荷を待っていました〈写真-2〉。隣の木材置き場ものぞかせていただき見学を終え、2月の寒い日の短い訪問を終えました。そしてこれが最初で最後のブランク氏との出会いになってしまいました。見本市の会場で、ドイツ・デコア社のシュミット社長が、ブランク社長の病が進んでいることを教え下さってからしばらくして訃報が届いたのです。ブランク氏にお目にかかってから12年余りが過ぎていて、その間また訪ねたいと毎年考えながら、その機会を作らなかったことを深く反省しました。

二度目の訪問は2002年。工房は既に移転し、新しいオーナーのポール・トレヒスリン氏が息子たちと迎えて下さいました。小さな工房でこつこつと日本向けのはめ絵やジグゾーパズルが作られていました。はめ絵は以前は糸鋸の切れ目が入ったままの仕上がりでしたが、トレヒスリン氏はその切り目が気になり1mmの厚みの薄い板を差し込んで仕上げています。今時、量産の玩具にこんなに手間をかける会社があること自体が信じられません。開閉式人形の家の作りも要所々にとても細やかな心遣いがなされ改良されています。以前から屋根のかわらの模様はノミでひとつずつ削っていたのですが、その作業に加えてジョイントの部分などに改良がなされたのです。採算を度外視したもの作りへの思い入れが感じられました。息子たちも楽しそうに話に加わってきました。又息子さんの奥さんが販売の担当で、工房から少し離れた自宅の一室がショールームになっていました。(写真-5)販売先をスイス国内と日本に限定しているのも、2代目のブランク社長時代と変っていないようです。丘の上のゲーテアヌムにある図書館の売店や、パストリーニ(チューリッヒ市内の有名な玩具専門店)などでスイス・デコアの玩具は見つけられますが、スイスの街の他の玩具店ではなかなか出会うことは出来ません。昔のアイテムも少しずつ復刻されていました。小さな工房での心のこもったもの作りが、この目まぐるしく変化するIT時代に、静かに脈々と継承されていることに感動して、又の訪問を約束し工房を後にしました。

2004年の10月、もう一度デコア社をグループで訪ねました。日本でデコアの玩具も販売しているお店の人達のグループです。工房が小さいので、24人のグループは二手に別れゲーテアヌムと工房を訪ね、途中で入れ替わりました。1日に2組の見学者が訪れてもトレヒスリン氏とスタッフの方たちはどこまでも丁寧に説明し実演してくださり、玩具を作ることに誇りをもってかかわっていらっしゃることが、そしてデコアの精神が今でも生きていることが見学者にじっくりと伝わってきました。( N記)



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1.
工房(1987年当時)
2.
工房内(1987年当時)
3.
カッティング
4.
カッティングが終わったところ
5.
ショールーム

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