MICKI  

MICKI/ミッキィ社
スウェーデン

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 ・ミッキィ社のはじまり  

 ・ミッキィ社の歴史  

 ・ミッキィ社訪問記 

 ・2代目ラースさんの事

 ・ミッキィ汽車のデザインの変遷 

 ・ミッキィ社製品の紹介 



ミッキィ社のはじまり

スウェーデンの首都ストックホルムから列車で約3時間半、スウェーデン南部のスモーランド(Smaaland)地方は「ガラスの王国」としてよく知られています。18世紀半ば、人々の生活の糧であった工業や林業が奮わなかったこの地方に新たなる産業としてもたらされたのが、豊かな森林からは薪、湖からは清らかな水が活用できるガラス工業でした。広大な森の中には世界的に名高いガラス工房が数多く点在しています。スモーランド地方の中心都市ヴェクショー(Vaexjoe)からほど近いゲムラ(Gemla)という小さな町にMICKI LEKSAKER(以下ミッキィ社)はあります。
ミッキィ社の創立は1944年。 代々アロンソン(Aronsson)一族によって会社は守り続けられ、現在は4代目のヨナス・アロンソン(Jonas Aronsson, 1961-)氏が率いています。
ゲムラは1860年頃から「玩具づくりの村」としてその名を知られていました。水力を利用することで木製玩具の製作が行われるようになり、1866年、村に最初の玩具会社Gemla Leksakerfabrik ABが誕生します。ストックホルムに「Gemla Leksakes-Magasin」(ゲムラおもちゃ百貨店)という立派な店を構えるまでに成長を遂げたこの会社は1896年〜1920年の間、アロン・ヨハンソン(Aron Johansson, 1866-1932)氏によって経営されていました。この後持ち主は変わってしまいますが、彼の子ども達は父の玩具づくりの意思を受け継ぎ、時を経てのちにミッキィ社を立ちあげることになります。
1944年、あるレストランでの出来事でした。近くの町のレストランで、当時本とミルク分離器のセールスマンをしていたゲオルグ・アロンソン(Georg Aronsson, 1900-1962)氏は偶然ある1人のアーティストと席が隣合わせになりました。2人は会話が弾み、アーティストはレシートの裏にたくさんのイラストを描いてみせました。たくさんのくまが並んだそのスケッチこそ、ミッキィ社の玩具製作の出発点となる小さな木製フィギュアのアイディアとなったのです。
家にとんで帰り、すぐに妹と3人の兄弟と知恵を出しあいながらサンプルをつくり上げたゲオルグは、EPA(Einheits Preis AB)というデパートにこの自信作「Micki Kul」をプレゼンテーションするためにイエテボリ(Goetenborg)行きの列車に飛び乗ります。EPAは当時スウェーデン国内に130の支店をもつ大手のデパートでした。
あいにくEPAの仕入責任者は入院中でした。しかしゲオルグの人柄の良さと熱意が秘書の心を動かし、彼女はサンプルを病院に届ける約束をしてくれました。
ゲムラへと戻ったゲオルグを待ちうけていたのは、EPAからの20000個という大口注文の嬉しいニュースでした!1944年8月17日、この日こそミッキィ社が第一歩を踏みだす記念すべき日となったのです。初回にして大量の注文をうけたアロンソンの兄弟姉妹たちは一家総出で生産にとりかかることになります。当初は工場など持っておらず、アロンソン家の大工小屋やキッチン、そして地下室からミッキィ社の玩具づくりは出発しました。





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1 現在のMICKI社
2 Micki Kul とそのスケッチ
3 現社長 Jonas Aronnson氏




ミッキィ社の歴史

1944年

ゲオルグ・アロンソン(Georg Aronsson)氏、ゲムラの近くの町ユンシューピン(Joenkoeping)にあるレストランで出会ったアーティストが描いたイラストをヒントに、木でできたくまの人形「Micki Kul」の生産を思いつく。8月17日、当時スウェーデン国内に130の支店があったデパートEPA(Einheits Preis AB)から20000個のオーダーが入ったことを皮切りに本格的な玩具製造を開始。弟のウステン(Oesten), スティーグ(Stig), オッレ(Olle)、そして妹のユータ(Goeta)と共にMICKI LEKSAKERを設立する。(「Micki Kul」はMICKI社の看板商品として1948年まで生産される)

 

1952年

木製の汽車シリーズの生産を開始

1962年

ラース・アロンソン(Lars Aronsson)氏が父親のゲオルグから会社を引き継ぎ2代目となる

1972年

ニキティキとミッキィとの出合い

1990年

ラース氏、ニュルンベルク国際玩具見本市からの帰途、ヴェクショーの空港で心臓発作のため急逝。彼の弟であるオーラ・アロンソン(Ola Aronsson)が3代目ミッキィ社社長に就任。

1991年

新幹線が汽車シリーズに仲間入り。これは日本の子ども達のために考案されたもの。(後に現在のNEWエクスプレスに仕様変更)

1996年

汽車シリーズのデザインがリニューアル。汽車の色も従来の染めから塗りのタイプへと変わる。ミッキィのシンボルカラーである赤・緑・青・黄の4色を取り入れており、明るく楽しいイメージが加わった。

2002年

4代目社長にオーラ氏の甥であるヨナス・アロンソン(Jonas Aronsson)氏が就任。

2006年現在社員数58名。





ミッキィ社訪問記

1984年、(もう20年以上も前になります。)ミッキイ社を初めて訪ねました。
ミッキィ社の所在地、スウェーデンの南部に位置するゲムラ(Gemla)へはストックホルムから小さいプロペラ機に乗って向かいます。機内はラース社長の弟のボウさん(Bo Aronsson)さんが巨体の持ち主で、彼が乗ると飛行機も傾いて飛ぶのだよとラース社長がふざけて話してくれた通りのこぢんまりとした空間。飛び発ってしばらくすると、スチュワーデスが前から順に空港到着後の予定を聞きはじめました。迎えの来ない人のために、タクシーの予約を受けているのです。小さな街に向かっているのだなと改めて思いました。夜の飛行場にはラース社長夫妻が迎えに来て下さいました。
泊めていただいたのはある会社の別荘をホテルに改造したという旧い美しい館。オーナーは品のいい婦人で、その夜の宿泊客は私一人だけ。物音一つしない冬の夜、年代物の豪華な家具に囲まれての就寝。

翌朝7時、早々と迎えに来て下さったラース社長と一緒にホテルの朝食を頂き、早速会社と工場に向かいました。8時、工場は既にフル回転。まず驚いたのは工場の規模の大きさ。丸くて可愛い形の赤い防音具を耳につけ、紺色の作業着を着た職人さん達が手際よく木材を切断しています。ポストボックスの蓋が次々加工され山積みになり、汽車セットのレールを切断する機械や大きな合板を切断する機械などが稼動し、工場は活気に満ちていました。ドイツやスイスで見てきた玩具の工場に比べ自動化も進んでいるし、高い天井の建物は、隣接しているストック置き場も含め、とても近代的。働いている人達は日本からの来訪者を、機械を操作しながら明るい笑顔で迎えてくれます。壁や備品の色の使い方も上手で、隅々まできちんと神経が行き届いてスペースもゆったりとられています。身売り寸前の会社を初代社長から引き継ぎ、ここまで大きくしたラース社長の手腕に改めて敬意を表し、工場の見学を終えました。木工所独特の騒音の中で生き生きと働いていた30名ほどの職人の中にはアロンソン家の身内の人達も多く、親戚一同が力を合わせて会社を守っているという印象を受けました。

工場から少し離れたホールの中央に大きい机があり、そこで若い人たちが数人並んで汽車セットの箱詰めをしていました。4両汽車を1セットずつ箱に入れてゆく作業です。よく見ると正面に先生が座り、若者の作業を指導しています。作業はのんびりとしたテンポで進み、途中で散歩にでも行くかのようにつと席を離れてあたりを散策している若者もいます。ラース社長から、この人達は知的ハンディキャップを持った特殊学級の生徒さん達で、訓練もかねて単純作業に携わっていること、政府の福祉事業の一貫なので報酬は払わないが、その代わり企業は世界でも有数の高い税金を払っていることなどの説明がありました。4両汽車セット一箱分ずつを縦に10列に並べ、箱を10個机の上に取り分けて、手前の列から一列分ずつ箱に入れてゆく間違えようのない段取りの中で作業はゆっくり繰り返されていました。
このシステムは、報酬関連の仕組みが少し変ったようですが、2006年現在も続いており、毎日8人の生徒が先生と共に単純作業を手伝っています。日本で部品不足のクレームが発生するたびに、あのシステムがきちんと稼動していないのかと気にかかります。無心に仕事に携わっている彼らに、心からのエールを送ります。

社用の赤い運搬車は、とてもシンプルで美しく、雪景色によく似合っていました。社屋はえんじ色で近代的。事務所もとても合理的な家具や備品が揃い、羨ましく思ったのを覚えています。
午後は工場から出て、近くの幼稚園の見学です。スペースに恵まれた大きい園で、子ども達はのびのび遊んでいました。特別なプログラムもなく、目立つ遊具や玩具もなく、全てが自然体でのんびりしているように見受けられました。部屋に並ぶミッキィのレンジや押し車は、いずれも使いこまれ、汽車セットのレールなどは黒光りしているものもあります。子ども達はマットの上で逆立ちをしたり転がったりして、はにかみながら珍しい日本人を下のほうから覗くように見ていました。部屋の大きさに比して子どもの数が少ないのが印象的でした。

翌朝ゲムラを発ちました。車で向かう飛行場までの車道は雪をかぶった樺やトウヒが両サイドに立ち並び、並木の向こうには、なだらかな起伏のある平地が広がり美しい墨絵のよう。寒く長い無彩色の冬を過ごす人々の知恵なのか、パステルカラーに塗られた家が点在し雪景色にやさしさと暖かさを加えていました。


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1 初めての訪問のときに乗ったプロペラ機 1984年
2 MICKI社 1984年
3 宿泊したホテルのオーナー 1984年
4 赤い防音具をつけて 1984年
5 2代目ラース社長、後ろはのちの3代目社長、弟のオーラ氏(Ola)氏 1984年




二度目の訪問 
1990年代には、東欧やアジアとの人件費の格差が広がる中、大手のドイツ有数のメーカーが既に生産地を東欧やアジアに移しているように、中堅のミッキィ社もそのジレンマの中で苦闘してきました。得意とした汽車セットは、ブリオ、ミッキィに続き10本の指で数えきれないほど競合メーカーが増えました。次第にミッキィ社を支える主要商品は、汽車セットなどの木製玩具ではなく、中国に生産システムを構築したプラスチック製の人形の家セットなどの量産玩具に移行しているように見えました。危惧を感じ1996年夏、今後の方針を話し合うために久しぶりにミッキィ社を訪ねました。ドイツ、フランクフルトの見本市に合わせて1日だけの訪問です。あいにく工場は稼動していない日でした。飛行場に迎えに来てくださったのは故ラース社長の従兄弟の、ラース氏の理念を受け継いだ輸出部の責任者ペル・アロンソン(Per Aronsson)さん(以下ペル氏)。社のショールームで、如何にして日本市場での可能性を伸ばすかにテーマを絞って話し合いました。ニキティキとしては、まず原点に戻って、汽車セットに新しい部品を加えてもらいたい事、但しミッキィの汽車セットの特質であるシンプルさと格調の高さを守り、遊びを深めるものが欲しいこと。こどもの関心を惹くための派手なパーツを加えるのではなく、あくまでも汽車セット遊びを深めるものを作って欲しいことなどを伝えました。他にもアジア諸国が年々力をつけてきている中、それに対抗するためにも何とか質を落とさない物作りをして欲しい事などが話し合いのポイントになりました。そしてミッキィの汽車セットは、デザインがシンプルで美しいだけでなく他社のどの汽車セットよりも、子ども達の遊びを引き出す力を持っているので、ミッキィの頑張りに今後も期待していることを伝えました。

お昼は郊外のレストランでご馳走になりました。当時の3代目の社長オーラ(Ola Aronsson)さん達も加わって、車で出かけました。レストランの庭では色とりどりの水着を着た大勢の家族連れが水遊びを楽しんでいました。北国の夏、咲き乱れる花々は日本の花より花輪が大きく、色も強く鮮やかです。花も木も人も、太陽の日差しを全身で受けとめ、短い夏を精一杯謳歌しているように見えました。




吉祥寺の串焼き屋にて。
ラース社長の従兄弟のペル・アロンソン氏。
輸出の責任者に就任後、三度日本を来訪。
(1995年、2000年、2005年)


2代目ラースさんのこと



● ラース ・アロンソン(Lars Aronsson)さんとの出会いと別れ
 
 
ニキティキがこの玩具の世界に足を踏み入れた直後の1972年、チューリッヒ(Zuerich)ではとても近代的な雰囲気を持つといわれていた百貨店・グローブス(Globus)の玩具売場でミッキィの汽車セットに初めて出会いました。当時ブリオ(BRIO)はすでに老舗メーカーとして、玩具見本市でも大きなブースを持ち、米国ではトレインセットの代名詞といわれるほど、世界的にシェアを拡げていましたが、ニキティキはブリオが誇るツヤのある厚いラッカー仕上げに違和感を持っていた事と、小さいニキティキがかかわるには大きすぎるメーカーという認識もあって、最初からブリオを扱うことを視野に入れていませんでした。

そんな時出会ったミッキィの汽車セットはとても新鮮で、その素晴らしさにすっかり魅了されました。当時は汽車も木肌を指先で感じ取れる染色仕上げ、デザインもシンプルで美しいものでした。磁石で車両を接続する方法も新しく、レールのジョイントがプラスチック製であるところも気に入りました。知り合いのドイツ人のお宅で、木のジョイント部分が折れて使えなくなったブリオのレールを何本も目にしたことがあったからです。

早速取引の可能性をスウェーデンに問い合わせました。ところがミッキィ社からの返事はとても短く愛想のないものでした。『学生である私の息子が英語を話せるようになったら、日本への輸出も考えられる。それまで待って欲しい。』 その手紙が日本で真似されコピー商品が出回る事を恐れての、とりあえずの対応であったことは間もなく明らかになりました。その後、ミッキィ社もニキティキのことを調査し安心してくれたのか1972年の暮には輸入が実現しています。

その当時、本の訪問販売で活躍していたほるぷ(株式会社ほるぷ)が絵本のセット販売に加えて、子どものための優れた輸入玩具のセット販売をしたいと、当社に交渉にいらっしゃいました。こどもの成長過程が一人ひとり違うことを考えると、玩具のセット販売には抵抗がありましたが、小さいニキティキの力だけでは、高価なヨーロッパの玩具を早い展開で日本市場に広めるのは難しいとの判断から、期限を限定してほるぷ社の企画に参画することにしました。こどもの年令別に4つのプログラムが組まれミッキィの汽車セットも<僕の旅>という商品名で4つ目のセットとして販売されました。ネフ、ケラー、デユシマ、ユシラ、マイスターギルデなどの商品は他の3つのセットに組み込まれていました。この企画は、輸入玩具が初めて日本市場へきちんとしたプログラムで登場するということで話題性もあり反響も大きく、汽車セットもかなりの数が日本の子ども達の手に渡ってゆきました。
(余談になりますが、小さなニキティキにとって当時ほるぷ社に扱って頂いたことは、メーカーの信頼を得るだけでなく、経済的基盤を構築するための大きな支えになりました。ほるぷ社には今でも感謝しています。)

当時ニキティキが仕事をした2代目のラース・アロンソン社長(以下ラース社長)は、とても陽気なスウェーデン人でした。日本への輸出量が増えるにしたがって、彼のニキティキとのかかわりは深くなってゆきました。彼が朝7時に出社したらまず行なうのが日本への電話でした。用がなくても、その電話は毎日のように掛かってきました。それはご自宅の庭に冬眠から目覚めたハリネズミの家族が出てきたり、雪が初めて降ったことを伝えるだけだったりもしました。時差のある日本では15時頃に電話がかかります。側で鳴っているのにどうして誰も電話に出てくれないのかといぶかっていたのですが、英語は苦手なので15時前後は受話器に近づかない習慣がスタッフの間で定着していたことが判明して、皆で笑いあったのも懐かしい思い出です。

1984年、ラース社長の初来日がニキティキの倉庫の引越しと重なったとき、彼は天井近くまでやっと積み上げた玩具の山をさして、「この玩具を反対側の棚に移せとボスが言っているよ!」と嘘をついて皆のあわてる様子を楽しまれたり、玩具の棚のあちこちに、ミッキィとご自身をアピールするメモをそっと貼り付けたり、まるでいたずらっ子のようでした。また、ニュールンベルグの見本市のミッキィのブースにはウイスキーが用意され、そのミニバーの存在はアルコールに目のない出展者やバイヤーの間ではよく知られていたようでした。仲の良かったグローブスのバイヤーのニック(Nick)氏やスタプシィ(Stupsi)人形のシュトレ(Stolle)社長だけでなく、取引のない人達も次々加わって、楽しげにミッキィのブースでたむろしていらっしゃいました。ジョークが得意で陽気なラース社長の身辺はいつも賑やかで明るい笑いが絶えなかったのです。

1990年、見本市の最終日。もうブースの取り壊しが始まっているスタンドで、お別れを言いに立ち寄った私の両肩に手を置いて、ラース社長は“Please take care of MICKI!”とおっしゃって私の目を深く覗き込まれました。毎年彼のお別れの言葉は“Take care of yourself!”で終わるのが常だったので少し奇異に感じたのを覚えています。でもそれが最後のお別れになるなんて……。翌日の帰途、ストックホルムの飛行場で乗り継ぎ、夜遅く厳寒のヴェクショーの飛行場に到着された直後、空港のロビーで心臓発作で倒れられたラース社長は、そのまま帰らぬ人となられたのです。

スウェーデンを訪ねたとき、これを私だと思い、机の上において毎朝挨拶するように と手渡された塗装も少しはげた小さな木の人形は、もう滞日20年以上になります。ユーモラスな雰囲気を持つこのラース社長の分身は、今でも毎日そのどんぐり目玉を見開いてニキティキのみんなの仕事ぶりを観察しているようです。 (N記)



ラース氏の人形





ミッキィ汽車のデザインの変遷

● ミッキィのシンボルカラー
ミッキィのおもちゃの多くには青・赤・黄・緑の4色が使われています。この4色はミッキィ社のシンボルカラー。
青…セーフティ 赤…エネルギー 黄…ジョイ 緑…ナチュラル を表しています。
● 材料の木
ミッキィの玩具にはおもにカバ材が使用されています。汽車の線路にはドイツのブナ材を使用。

・〈〉内はメーカー生産開始年 ・赤字の汽車は現在は生産されていません。


 1960年〜70年代
・ 汽車B(1965)*現在品名は汽車4両、色もMICKIカラーに変更 ・ 汽車A(1968)
・ 汽車C(1978)
 1980年代

・ オリエント急行(1981)

・ 汽車D(1984)

・ 動物列車(1986)

 1990年代

・ トロッコ車(1991)

・ 新幹線(1992)

・ SL3両(1993)

・ サーカス列車(1994)

・ NEWエクスプレス(1996)

・ 4人のり汽車(1996)

・ オールドタイマー(1996)

・ 貨車4両(1996)

・ 特急4両(1996)

 2000年〜

・機関車3両 (2005)

・ トラム(2005)

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