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東西ドイツの壁の崩壊 |
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1991年 |
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ジーナ(SINA Spielzeug GmbH)社設立。当時のスタッフは5人。
デュシマ社専属の委託メーカーとしてデュシマ製品の生産を受け持った。
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1993年 |
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ザイドラー夫妻の監督のもと、エルツ山地の伝統的な玩具や、フレーベル理論に基づいた独自の玩具の生産も開始(ジーナモザイク、 ベビーキューブ/NTカタログno.D-24-8,E17-4など)。
後にフレーベル色棒帳 (NTカタログ no.F14-3)なども加わる
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1994年 |
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ニュールンベルグ玩具国際見本市に初めて出展。デュシマ社の隣のブースの小さな空間ではあったが、並んだ商品に個性があったため 業界の注目を浴びた。
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1994/95年 |
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カールステン・ブラウネ(Karsten Braune)氏のデザインによるジーナブロック(原名 Q U O/NTカタログno.D17-8)がドイツ木製玩具 デザイン賞受賞。その後も、毎年ジーナ社の商品はこの賞の対象としてノミネートされ、2000年にはロナルド・レッセルト(Ronald Lesselt)氏のデザインによるアウグストゥスブルク(Augustusburg)が受賞。レッセルト氏はベビー玩具などでも毎年ノミネートされ 若手デザイナーとして、知名度をあげている。
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1997年〜 |
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国境を越えた玩具デザイナーによる作品を商品化。
ザイドラー夫妻が以前より敬意を抱いていたネフ社創始者クルト・ネフ氏との親交が始まりネフ氏の作品や氏がコーディネイトした作 品の商品化が試みられるようになった。1999年日本のおもちゃデザイナーとして、ユニークな玩具の制作を続けている、ねもといさむ 氏の作品、オッティを商品化。その後もねもと氏のデザインによるおもちゃの商品化が決定している。
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2000年 |
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相沢康夫氏のデザインした積木の商品開発。静岡市にある玩具店 百町森おもちゃ村のスタッフとして活躍する相沢氏は、ネフ社の玩 具デザイナーとしてもその名を知られる存在。今回はネフ氏の仲介で、ジーナ社での商品化が実現。2月のニュールンベルグ見本市で 発表された。
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1994年ニュールンベルグの見本市の後、デュシマ社のお誘いを受け、ニキティキのチーム3名はザイフェンのジーナ社を訪ねることになりました。朝早い汽車でケムニッツに向かった3人を、社長のザイドラ−氏が駅まで迎えにきて下さり、駅から車で2時間たらずの道のり、畑や小さい村や林を走りぬけてやっとザイフェンに到着。ジーナ社がデュシマの玩具の生産を請け負ってから、商品の欠陥がいくつか発生していた時期だったので、その原因の究明と対策をデュシマ、ジーナ、ニキティキ3社で現地で話し合うのが訪問の第一目的でした。当時ジーナ社は、ザイフェンのとなり街のノイハウゼンに新しい工場を建てている最中でした。早速引越しを目前に控えたジーナ社・ザイフェン工場を見学。その日作業に携わっていた従業員5、6名、そのうちの2人は、2色モザイクの仕上げ作業中。山と積まれた三角形のパーツを、一つずつ手に取りB品をはぶいて行く仕事です。のどかというか、気の遠くなるような、ゆっくりした時間の流れです。色つけの作業は、ドラムに色と部品を入れて回転させる、従来のデュシマ社の方式がそのまま継承されていました。翌日見本市の事後処理を終え車を飛ばしてルル・シフラーさんが到着。半日をかけての3社会談で、ドイツを出るまでは全く問題がなく正確だった玩具のパーツのサイズが、日本で変化したのは、ジーナ社の木材の乾燥工程の認識に甘さがあったためと判明。(その後、自由経済で生き残っていくことの厳しさの中、ジーナ社はこうした問題を一つずつ解決しながら今日の技術のレベルにこぎつけました。)
会談の後は、ザイドラ−夫妻の案内で、村を回りました。有名なザイフェンの玩具美術館、ジーナ社の建築中の工場、以前から注目していたヴェルナ−さんの玩具工房訪問、そしてザイドラー氏が市長さんに特別の許可をもらってくれて、ヴィザもないのに、小川の小さい橋を渡って、隣国のチェコに入国。小さいレストランでコーヒーを飲んだりと、ちょっと観光気分。生まれてはじめて日本人を見た!と目を丸くされながらご馳走になったコーヒーは、なぜか、ざらざらした口当たりの奇妙なものだった事が懐かしく思い出されます。壁の崩壊後、5年が過ぎた当時でさえザイエフェンは、公衆電話もタクシーもなく、また街灯も少ない村でした。日が暮れて散歩の帰り道がわからなくなった時、案内を乞うため玄関のベルを鳴らしても、窓の奥からの視線は感じられるのに、変な東洋人を警戒して誰も出てきてくれなかったり、どうしても孫に日本人を見せたいので、今夜家にワインを飲みにきて欲しいとホテルを通じて近所の家族に招かれ、行ってみたら、親戚中がカメラを持って日本人を見るために集まっていたりと、3日間のザイフェン滞在は、忙しい日々を過ごす日本人にはタイムスリップしたようなほのぼのしたもので、他のメーカー訪問では味わえない体験となりました。