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JUSSILA/ユシラ社
フィンランド

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 ・ユシラ社とは 

 ・ユシラ社の歴史 

 ・ユシラ社とニキティキ  

 ・ユシラ社の理念 

 ・ユシラ社を訪ねて 

 ・ユシラ社製品の紹介 



ユシラ社とは

1923年創業以来、80年ものあいだ、フィンランドの木材だけを使用した木肌の美しい、昔ながらのオリジナル玩具を大切に作り続けているメーカーです。
創業者ユッホ・ユシラ(Juho Jussila,1874-1947)氏は1874年、フィンランドのベサラ(VESALA)という村の農家に9人兄弟の末っ子として生まれ、子どもの頃から木工を学び、自分たちで家具やそりなどを作ったり、修理する環境で育ちました。その後、小学校の教師となり子どもを中心に据えた教育法を考える中で、遊びの意義を重視するようになってゆきます。1908年、33才の時、国から資金を得てドイツへ教育視察へ行った際、彼に転機が訪れます。彼はドイツの教育システムと、特にライプチヒ周辺の家内工業やおもちゃ産業に強い興味を持ちました。この経験が教師として、そして製造者としての彼のキャリアに大きな影響を与えたのです。
この旅からの帰国後1909年、彼はユシラの教育玩具セレクション「JUHO JUSSILA FACTORY'S EDUCATIONAL TOY SELECTION」として21種の玩具とゲームを発表。この中には、ボーリングゲーム・ルーレット・ボールゲーム・銃・箱積木・絵合わせ・押し車などが含まれていました。その後、第一次大戦中は製造中断を余儀無くされましたが、1923年にユバスキュラ(JYVAESKYLAE)の自宅地下で再開、1925年に開発したBAGATELLE(コリントゲーム)は、フィンランドをはじめ、ヨーロッパでもすぐに人気商品となり、特にイギリスでは低迷期の安価な娯楽としてパブやクラブで流行、25万個ものBAGATELLEが輸出される程の成功を収めることとなります。生産規模が大きくなるにつれて、工場を移転、1938年には生産量でフィンランドでナンバーワンの玩具メーカーになり、ユシラのシンボルマーク、smiling boy はどこでも見受けられるようになりました。1950年代にはネフ社のカタログにも掲載され、ネフ社を通してアメリカにも大量に輸出され、北欧のモダンデザインを感じさせる美しい玩具として世界的に高く評価されました。



ユシラ社の歴史

1874年

創設者ユッホ・ユシラ氏がフィンランドのベサラ村の農家の9人兄弟の末っ子として生まれる。

1896年

ユシラ氏小学校教師となる。

1909年

  

ユシラ氏は教職に就いて後、1908年ドイツに留学。そのドイツでの経験に触発され、21種の玩具とゲームをデザインし製作、展覧会「JUHO JUSSILA FACTORY'S EDUCATIONAL TOY SELECTION」で発表。このことが玩具メーカーユシラの始まりとなる。

 

1912年

ユシラ氏は「セントラルフィンランドホームインダストリー協会」のメンバーとなり、1918年からは議長を務める。この協会は中央フィンランド地域の手工芸学校の維持、手工業及び家内工業の育成を目指した団体。

1923年

製造中止を余儀無くされた第一次世界大戦の終結後、ユバスキュラの自宅地下を新しい製造の拠点とし、この年が正式なユシラ社設立年となる。

1925年

ユシラ社の代表作でもあり、現在も作り続けられているコリントゲームの原形を考案、製造を始める。この玩具は人気を博し、1930年代に入ると欧米諸国(特にイギリス)に膨大な量を輸出しユシラ社の基盤を作る。

1929年

大ヒットしたコリントゲームの生産に追われる。人手不足で、教師をしていたユッホユシラ氏の生徒など、町の少年が釘打ちを手伝いnail boy(釘打ち少年)と呼ばれる。世の中は不景気にもかかわらず、オーストリア、カナダ、アフリカへも進出。

1932年

株式会社になる。現在も使用されている、笑う少年JUKKAのシンボルマークが使われるようになる。

1934年

工場を移転。

1938年

動物シリーズ、車・汽車など乗物シリーズ、家組木など生産。ヒットする。

1947年

創設者ユッホ・ユシラ氏逝去。この頃会社は後に3代目ユシラ社長となるエリッキ・ユシラ(現在は会長)氏に引き継がれる。

1960年代

北欧の樺材を使用しモダンでシンプルなデザインが、スイス・ネフ社のクルト・ネフ氏の目に止まりネフ社のプログラムに取り入れられ、カタログにも掲載される。ネフ社経由で大量のユシラ社玩具がアメリカに輸出され、ヨーロッパ各国にも広まった。このネフ社との仕事を通してユシラ社は中堅玩具メーカーの地位を確立。個性あるメーカーとして業界に認知された。

1972年

日本市場にユシラ社登場。

1978年

日本の玩具デザイナー、和久洋三氏の商品 4点をユシラ社が商品化しプログラムに加える。(現在は生産されていない。)

1980年代

日本市場でユシラの玩具が最も広く認知された時代。40点余のアイテムが輸入され普及。

1990年頃

1989年からユシラ社に勤務していたエリッキ・ユシラ氏の娘であるマイヤ・ユシラ・サボ(Maija Jussila Savo)夫人が、1993年からプラスチック成形部門の責任者となる。ユシラは、ヨーロッパの販売をドイツの商社に託す。但しこの試みは問題も多く、現在は独自でヨーロッパ市場に販売。

2001年

マイヤ・ユシラ・サボ夫人が、4代目のユシラ社社長となる。




ユシラ社とニキティキ

 



ニキティキが初めてユシラ社の商品を日本で紹介したのは1972年。ネフ社経由の輸入でした。
当時ネフ社はユシラの欧米での販売権を持っていたのでニュルンベルクの玩具見本市でもネフ社のスタンドの一隅にユシラ社の商品が並べられ、のちに社長となる3代目のエリッキ・ユシラ(Erkki O. Jussila, 1933-2013)さんが窓口でした。無口で物静かなエリッキさんを支えていたのは、とてもアクティブな妻のア リ(Alli,1937-)さん。ニキティキは1974年には17点のユシラの商品を選んで輸入をしています。フィンランドの樺材で作られた木目も節もない明るい素木地がシンプルでモダンな北欧デザインとマッチして、とても好感のもてるシリーズでした。当時は今では作られていない長いバスや布の帆が付いたヨットや飛行機が多くの人に求められ、現存しているものではニワトリや丸すず、ハンマートイ等が人気がありました。暫くネフ経由の輸入が続きましたが扱う量も増え、無駄な時間と経費をを省くため、ネフ氏のアドバイスで直接の取引が始まりました。やっと両社の関係が確立した頃,事件が起こりました。ある日本の商社がニキティキの後からユシラ社との取引をはじめ、ついに独占販売権をとったのです。小さなニキティキは突然ユシラ社との取引が出来なくなりました。ユシラ社もその頃は,見本市で独立したブースを持つようになっていてネフ社の影響力も少なくなっていました。少し当惑はしましたが、ニキティキには勉強になる体験でした。

2年後 再びユシラ社との付き合いが復活します。その商社が玩具界で成功せずユシラから手を引いたからです。ニキティキはユシラ社からの再取引の要望を一年間受けませんでした。小さいニキティキにも意地があったからです。でも素朴な人柄のユシラ社長夫人の熱心なアプローチに気を取り直し再び取引きを再開。フィンランドの汽車やコリントゲームを扱うようになったのもこの頃からです。この件を通してニキティキは 片手間に扱うのではなく関わるなら全力を尽くさねば相手にも信頼してもらえないと言う事を学びました。当時フィンランドは国を上げて輸出を応援していたので、その制度を利用してエリッキ・ユシラ夫妻は3回も来日されています。朗らかで気取らない人柄で私達を魅了し彼女と過す時間はいつもまわりに笑いが溢れていました。

ユシラ社ほど玩具のデザインや質が変らない会社もめずらしいです。頑固なまでに自分たちの世界を守って今日まで生き残ってきた会社です。毎年の新商品も少ないのですが、逆にそれがユシラ社の特長となっています。
現在はエリッキ・ユシラ氏の長女のマイヤ(Maija Jussila Savo,1970-)夫人が会社を継いでいます。明るく気さくなご主人のハリ・サボ(Hari Savo,1956- 写真右)氏はユシラ家の期待を一身に受け、2001年からはセールスマネージャーとして経営に参加しています。昨今の欧米ではユシラ社の素朴で本質的な物作りより、もっと派手で子どもに媚びる甘いデザインが残念ながら幅をきかせています。
一方日本では ユシラ社の商品で一番ポピュラーな丸スズが今では毎年10000個以上、日本の赤ちゃんの手に渡っているのです。このことは、日本人の本物を見抜く力を証明しています。冬には工場の外は零下40度にもなる北の国フィンランドの地で、営々と作り続けられているユシラ社の玩具に乾杯!




左:3代目社長エリッキ・ユシラ(現会長)氏とアリ夫人
右:2004年のニュールンベルグ玩具見本市で活躍のハリ・サボ氏



 



ユシラ社の理念

 



ユシラ社のおもちゃ作りの理念は、創業者ユッホ・ユシラ氏が教師経験に培った、子どもの心の資質への理解に基づいています。子どもには創造的に考える力が潜在しており、その潜在能力を大人の考えた答えを用意し過ぎることで限定してはならない、という信念をユシラ氏は持っていました。
また、工芸教師時代から大切にしてきた素材選択へのこだわりと仕上げが重要だという彼の考え方が、現在にいたるまでユシラ社が守り続けている基本理念になっています。また、ユシラ氏はフレーベルの教育理念や学校教育の改革派の人々と同じように、子どもの発達のための遊びの重要性は「すべてのよいことの源泉」であり、子どもが本来持っている自然の姿の発露である、という考えの持ち主でもありました。以下に 創始者 ユシラ氏の語録や社の印刷物より会社の理念とも言える部分を抜粋しました。

『 遊びは子どもの仕事であり、それゆえ大人はその子どもにあった道具を与えなければならないのです。遊び自体は自由であってよいはず、つまり子どもの創造性と想像力は、大人の合理性にかこつけたやり方とは無縁であるべきです。』

『私たちは子どもの目を通しておもちゃに関する問題を総合的に見るべきです。子どもにとって遊びとは、大人にとっての仕事と同じ意味を持ち、遊びのなかから子どもの心の中に隠れている多様で個性的なその子ども独自の考え方がめばえていくのです。すでにこの時点で創造的な仕事の基盤が築き上げられていく可能性があり、それはその子どもが大人になった時、人類全体が恩恵を被るような重要な仕事に結びついていく場合だってあるのです。私たち保護者が子どもの遊びを不作法に批判することは許されない罪を犯すようなもの。子どもなりの考えに基づいた構想が邪魔されたり破壊されたりしたとき、子どもの心は取り返しがつかないほど傷つくのです。』

『玩具は自然や実在のものをそのまま模倣すべきではなく、むしろ特徴的であるべきです。どういうことかというと、外側がそのまま形であることよりも、そのものの内面的な特徴(性質)が伝わってくるように形づくるべきであるということです。そうすれば、そのおもちゃは遊ぶ子どもの心の状態に呼応し、子どもの想像力は自由に広がるでしょう。』

『玩具は丈夫でなくてはなりません。壊れやすいおもちゃ―例えば、手にしたばかりの汽車の車輪がすぐにゆるんでしまったり、馬の人形の首が一回ぶつかっただけでとれてしまったら、そのおもちゃは子どもにどのような影響を与えるでしょう。もしかしたら後々ものを大切にしない子どもになるかもしれません。また、しっかり作られているおもちゃは子どもが大人に成長した後も同じ姿を保つことができます。持ち主が年老いたときに子ども時代の玩具が残っているのは嬉しいこと、そんなおもちゃは持ち主の記憶の彼方にある思い出を呼び戻してくれることだってあるでしょう。』

『玩具作りのポイントはシンプルで実用的、そして堅牢であること、言い換えれば、機能的なかたちと構造、耐久性のある素材の選択が大切です。フィンランドで木は入手しやすい身近な素材であり、おもちゃ作りの量産に適していました。色彩も玩具の外見の重要なポイントでした。 』

『玩具の彩色にはできる限り美しい色を選択すべき。子どもの色彩感覚は意識下で発達します。美しく調和のとれた色の組み合わせは、私たちに明るさ、心地よさを与えてくれます。私たちの生活全体を考えても、色彩の重要性は第一に考えるべきことです。』


 



ユシラ社を訪ねて


(ニキティキのスタッフが夏休みにフィンランドの白夜を体験する旅の途上、ユシラ社を訪ねました。)

1997年6月、友人と二人でユシラ社を訪ねました。フィンランドの首都ヘルシンキから3時間半ほどで列車はユバスキュラ駅に到着します。ユバスキュラはヘルシンキの北約270キロのところにある小さな都市ですが、20世紀を代表する現代建築家アルヴァ・アールト(Alvar Aalto)の出身地であり、市内にはアールトの美術館をはじめ彼の残した建築物が数多く点在しています。彼は高校卒業まで過ごしたこのユバスキュラに建築事務所を設立し活動の拠点にしていました。市の中心にはユバスキュラ大学のキャンパスがあり、活気的でアカデミックな雰囲気が感じられます。

わたしたちを迎えにきて下さったユシラ社の3代目社長エリッキ氏とアリ夫人(現在は引退し会社は娘さん夫婦に引き継がれています)の車に乗せてもらい郊外にあるユシラ社へと向かったのです。市内を出るとすぐ車窓は生い茂った森が続くフィンランド特有の風景に変わります。緑が美しいこの時期、北欧では白夜がはじまります。日が沈むことのない夏の間、フィンランドをはじめとした北欧の人々は真夜中まで野外ディナーをゆっくりと楽しんだり、湖畔にあるサウナに入ったり泳いだりすることで太陽の光を暗い冬の分まで取り入れようとします。ユシラさんも夏休みはいつも一家で湖畔にあるサマーコテージで過ごされるそうです。

青い屋根にピンク色の壁をした正面玄関を入ると、壁一面の棚に並べられたユシラ社の玩具たちがわたしたちを迎えてくれます。今ではすっかりユシラ社のトレードマークとなっている白木に赤黄緑を配色した玩具たち。そして棚の隣にある小さな部屋を覗くと、さらに色とりどりのたくさんの玩具たちがわたしたちを待っていました!ここにはかつて生産されていた車や汽車、ゲームなどユシラ社の歴史を物語るコレクションが収蔵されています。現在のものとは形が違う四角い足のカラームカデやユシラ社が世界的に知られるきっかけとなったコリントゲームの初期オリジナル…。80年経った現在も改良を重ねながら昔と変わらぬアイテムを大切に作り続けているユシラ社のものづくりの姿勢がうかがえます。

工場内には製材され板状になったフィンランド産の樺の木がうずたかく積まれ、5、6人の職人たちはひとつひとつを手にして組立てや色付けをおこなっています。広さ、職人の数をみてもユシラ社の工場は大規模ではありません。しかし、この規模であるからこそお互いの目が行き届く中で職人たちは各々の作業を丁寧に行なえるのでしょう。そして彼らの作業を見ていると愛情をもって自社のおもちゃを扱っている姿勢を強く感じます。それは製作工程ではもちろんのこと、パッケージにおさめられた製品が整然と並べられているところにも表れているようです。

ちょうどユバスキュラ大学では創設者ユッホ ユシラ氏の展覧会が開かれていました。それまで口数の少なかったご主人のエリッキ氏が、教育者としても大きな功績を残した父ユッホ氏のことを熱心に説明して下さる姿がとても印象的でした。

ヘルシンキにある有名なデザインショップやインテリアショップを覗くと必ずユシラ社のおもちゃを見つけることができました。不変でシンプルな中にモダンさも併せ持つユシラの玩具は子供のみならず大人にも受け入れられているようです。



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1.ユシラ社社屋
2.ユシラ社ショールーム
3.BAGATELLE(コリントゲーム)の試作品
4.ユシラ社初期のロゴ(左)、smiling boyマーク(右)


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