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 ・ケーセン社とは 

 ・ケーセン社の歴史 

 ・ケーセン社の哲学  

 ・ケーセン社の仕事の中から 

 ・デザイナーの言葉 

 ・ケーセン社の特別なぬいぐるみ 

 ・ぬいぐるみの製作工程 

 ・バート・ケ−センのケテ クルーゼ美術館 

 ・ケーセン社製品の紹介 



追記ー1

2019年8月作成


ケーセン社とは

《社名について》
正式な社名は『Koesener Spielzeug Vertriebs GmbH』です。ニキティキでは通称として、日本人が発音しやすいように「ケーセン社」という呼称を使用しています。

今、ドイツでいちばん美しい動物のぬいぐるみを作っているのはケーセン社と言えるでしょう。ケーセン社は東西の壁の崩壊後、質の高いぬいぐるみを世に出していくというコンセプトを掲げ新たに再出発した会社です。1912年、ゲーテ街道の要所として有名なワイマール(Weimar)の近く、ザクセン・アンハルト州の保養地バート・ケーセン(Bad Koesen)に、ケテクルーゼ(Kaethe Kruse 写真-1)夫人が工房を構えました。後にドイツの代表的な人形としてその名を世界的に知られるケテ・クルーゼ人形が製作されていた工房がケーセン社の前身です。第2次世界大戦後、この地は東ドイツ(DDR)となり、ケテ・クルーゼ社は西ドイツのドナウヴェルト (Donauwoerth)市に移りました。残された工房は国営企業としてケテ・クルーゼ社の製品を作り続けますが、次第に人形製作は衰退していきます。それに替わって力を入れはじめたのがぬいぐるみの生産でした。ケテ・クルーゼ社の下請けをやめた後も、近郊のハレ(Halle)にある芸術大学のデザイナーやアーチストと手を組んで、独自の動物を中心としたぬいぐるみ製作を続けていきました。しかし共産主義体制の中で製作されるぬいぐるみは、東欧の市場の需要におもねった安価なものでした。突然の東西ドイツの壁の崩壊で自由経済が始まった時、この工房を買取り世界一のぬいぐるみメーカーにしたいと思い立ったのは、当時バート・ケーセンの市長であったシャッヘ(Dr. Schache 写真-2)氏 でした。この工房が壁の崩壊後、短い期間ぬいぐるみの大手シュタイフ社の下請けをしていた経験も技術的な面は言うに及ばず、多面的な意味で現在のケーセン社の誕生に役立ちました。シュタイフ社との提携契約が終了した時、社長はシュタイフを超える見事なぬいぐるみを作ろうと思い立ったのです。自分たちの理想とするこれまでにない格調の高いぬいぐるみを目指し製作に取りかかりました。
チーフデザイナーのメーラン(Annekatrin Mehlan)女史が優れたデザイナーであったことがシャッヘ氏の夢の実現に大きく貢献しました。彼女は毎週動物園に通い動物をスケッチし写真を撮影、観察を続けました。今でも他国の大きな国立公園を訪ね、野生の動物を観察を続けています。
小さなメーカーですが毎年、海外にも販売網を広げ、アメリカ、オーストリア、フランス、スイス、デンマーク 日本を含む、多くの国に代理店が出来、今、世界でもっとも注目されているぬいぐるみメーカーとして、定評を得ています。シャッヘ氏は、出発当初に「会社規模は小さいけれど、質ではシュタイフを抜く。」と公言しましたが、短い期間にすでにそれを達成したと考えるファンも多くいます。ちなみに、ケーセン社のシンボルにライオンを使ったのは、ライオンが百獣の王であることに加え、社長のシャッヘ氏が、獅子座生まれだからです。メーラン女史はデザインチームの中心となり現在も活躍しています。すでに日本を2度来訪。日本独特の動物をぬいぐるみで再現する事も彼女のテーマのひとつなので、またの来日もそう遠くないのかも知れません。



ケーセン社の歴史

 

1912年

  

旧東ドイツ・チューリンゲン地方の小さな保養地、バートケーセン(Bad Koesen)に、ケテ クルーゼ(Kaethe Kruse)夫人が工房を設立。後にドイツの代表的な人形としてその名が世界的に知られるケテ・クルーゼ人形が製作される。

 

1950年

第2次世界大戦終結の後、ケテ・クルーゼ社は西独のドナウヴェルト(Donauwoerth)に工房を移転。ケーセンの工房は国営企業(VEB)となる。当初はケテ・クルーゼ人形の製作を請け負っていたが、人形作りは次第に衰退。これに代わってぬいぐるみの製作に力を入れはじめる。

1965年

ケテ・クルーゼ社の下請けをやめ、近郊の街ハレ(Halle)の芸術大学で学んだアーチストやデザイナーと提携し、独自のぬいぐるみやプラスチックの乳児玩具を開発。

1969年

ケーセン社(VEB Koesener Spielzeug)に社名を変更。現在もこの社名は引き継がれている。
1990年の東西ドイツ統一までの間、ケーセン社は東独の国営企業として主に東欧の市場をターゲットにした玩具を生産。

1992年

東西の壁崩壊後、国営企業が解体し、当時バート・ケーセンの市長であったドクター・シャッヘ氏がこの工房を入手。伝統的な技術とケテ・クルーゼ時代に培われた良質のものを作る気概 に裏打ちされた新しいぬいぐるみの会社、ケーセン社を立ち上げる事となる。実在する動物を、できるだけ忠実に布の素材で再現する。そのために、全行程のオートメーション化は避け、要所はできる限り人の目を通し、手作業の部分を増やした。下請け業者にまかせない、目の届く範囲での物作りに徹し、レベルの高いぬいぐるみを世に出していった。

1993年

ケーセン社は、子どもにこびない大人も楽しめる本物のぬいぐるみメーカーとして高い評価を受け、ノルトラインヴェストファーレン州のデザイン賞を受賞。ぬいぐるみ業界で最も注目を浴びるメーカーとなり、ニュールンベルグの国際玩具見本市でも、話題の人気ブースとして毎年大勢の顧客が訪れるようになった。

1997年

ザクセン・アンハルト州のデザインアワードにメーラン女史のブラウンベアと白くまが選ばれる。
新社屋が完成(写真-3)。

2003年

限定版メガネクマが『TEDDYBAER TOTAL(ドイツ・ミュンスターで毎年開催される世界最大級のテディベア見本市)』コンペティションのカテゴリー4 インダストリー部門で最優秀賞を受賞。テディベアの賞としては、世界的に権威のある賞と言われている。



 

ケーセン社の哲学

制作者は 自然の動物の特長を捉え、優れた技術でそれを再現した芸術性のあるぬいぐるみを子どもに手渡すべき。

すべて実在の動物を基にし、それをぬいぐるみの世界に転写。さらにただの模写ではなく、その動物の特性を生かし たぬいぐるみを作ることを信条としている。例えばテディベアを手掛けないのはケーセンの信条による。

ぬいぐるみの顔は擬人化された子どもに媚びるようなものではなく、子どもがその時々の感情を移入できる自然なものであるべき。

ぬいぐるみは柔らかく子どもが自由に動かして遊べるものが望ましい。そしてその縫製は、いつまでも壊れないしっかりしたものであるべき。安易な縫製でぬいぐるみの手足が取れたりする事があってはいけない。なぜなら愛情を持って接してきた大切な仲間が壊れ子どもの心が傷付くのはさけなければならないから。

ぬいぐるみは気持ちよく頬ずりでき、いつまでも型くずれしにくいものであるべき。

 



ケーセン社の仕事の中から

型がしっかりしていて、細かいところまで注意深く縫製されているため、中身をいっぱいに詰めても形がくずれない。

小さな鳥や動物は特に手縫いの作業が特に難しいが、ひとつひとつ丁寧に行うことで柔らかさが生まれ、デリケートな曲線が表現される。

パーツはそれぞれの特徴を表現するのにふさわしい布を探して使用する。

たとえば足の裏やトカゲや蛙には日本の優れた合成皮革を特色で発注している。

一つのぬいぐるみに20種以上の異なった材質が使用される事が多い。

それぞれの動物の部分を裁断した段階でストックしておき、注文が入ったものだけを縫製し仕上げるというシステムなので納期が早く、無駄な在庫がない。

素材は独、仏、ベルギー、オーストリア、日本の各メーカーに、染や織を特注し調達。表面は綿・ポリアクリル・モードアクリル等動物によって異なり、一つの動物に40種以上の異なっ た素材を使用する事もある。中身はポリエステル等、目と鼻にはプラスティックを使用。

 



デザイナーの言葉


「カナディアンロッキーで色々な野生動物を間近で見ることができました。ムース、牡ジカ、オオツノヒツジ、そして何種類ものリス、ブラックベアにも出会いました。道沿いに、気持ちよさそうにどっかり座り、レッドベリーをおいしそうに食べていました。私がじ
っと見つめていることなどまったく意に介さない様子でそのブラックベアはそこにあったレッドベリーを平らげるまでその場を離れませんでした。」
ANNEKATRIN MEHLAN(ケーセン社のチーフデザイナー)


 



ケーセン社の特別なぬいぐるみ

ケーセン社では1997年以来、実際の動物と同じような大きさのジャンボぬいぐるみを開発しています。これまでにブラウンベア、いのしし、おおかみ(写真-4)、白くま、パンダなどが作られました。そのほかにケーセン社が力を入れているのは毎年発表する限定版です。始めて限定版を発表したのは1998年のライオンでした。社の創設85年を記念しての企画でしたが好評だったためその後も毎年企画しコレクターを喜ばせています。限定数は原則として500か1000。なくなり次第販売は終了となります。近年はくまのシリーズが続いています。テディベアコンテストでの受賞も多く、テディベアファンの間での評価も高い作品が生まれています。
以下は受賞歴です。

[THE GOLDEN GEORGE]
ドイツ・ミュンスターで毎年開催される世界最大級のテディベア見本市『TEDDYBAER TOTAL』におけるコンペティション。栄誉ある受賞には金色のくまのトロフィーが授与される。
 1999年 限定版ブラウンベア  (no. 4140)
 2000年 限定版ブラックベア(大) (no.4430)
 2001年 限定版ホワイトベア(大) (no.4580)
 2003年 限定版メガネクマ座り (no.5000)(写真-5,6)

[TED WORLDWIDE]
 2001年 限定版ホワイトベア(大) (no.4580)
 2003年 限定版ノースアメリカンベア(大)(no.4810)




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<ケーセン社のぬいぐるみの製作工程

芸術大学で玩具のデザインを学んだ、優秀なデザイナー達が実際の動物を見ながらスケッチを描く。(写真-1,2)

スケッチをもとに、粘土で実物大の塑像を制作しそれに合わせて型紙を創作する。
型紙がぬいぐるみの出来上がり具合を決めるので、スタッフが特に力を入れるとても大切な作業。(写真-3,4)

各部分の素材を決める。一つのアイテムに20種類以上の場合もある。

何度も仮縫いを繰り返し、型紙を修正。型紙が完成後、型紙にあわせて正確に布を裁断。(写真-5)

工業ミシンを使い手作業で縫製。(写真-6)

それぞれのパーツを手作業で組合わせ取り付ける。

目を打ち込む。

空気圧の機械を使用して中身を詰め、最後に手縫いで閉じる。(写真-7)

口やひげ、たてがみをカッティングやペイントして仕上げる。(写真-8)

最終チェック、微修正。(写真-9)

出荷のためのナンバーやミニパンフレットの取りつけ。


★特大ブラウンベアができるまで → コチラ をご覧ください(別ウインドウが開きます)。




 
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追記ー1  Toymaker ケテ・クルーゼ社ページより引用

バート・ケ−センのケテ クルーゼ美術館



「ドイツの代表的な人形は?」とドイツ人にたずねると、ほとんどの人がケテ クルーゼと答える。女の子が誕生すると娘にケテ ルーゼ人形を贈る事がステータスだった時代もあったほどで、この人形には日本でのお雛様のような意味合いがあるのかも知れない。戦前ドイツの上流家庭に普及していた古いケテ クルーゼ人形は、今でも多くの人形コレクターの垂涎の品である。ヨーロッパ各国やドイツ国内の玩具美術館や人形美術館では必ずといってよいほど、古いケテ クルーゼ人形に出会えるが、オランダのデンヘルダー(Den Helder)や、本社のあるドナウヴェルト(Donauwoerth)のケテ クルーゼ美術館は、世界各国の人形ファンに良く知られていて、訪れる人も多い。
しかしワイマールに近い元東ドイツの保養地バート・ケーセンのケテ クルーゼ美術館はまだあまり知られていない。1912年から1950年までこの地でケテ クルーゼの工房があったことを記念し1993年、街の中心部にある美術館(Kunsthalle)の2階に、そのケテ クルーゼ美術館は開館された。2005年の冬、雪の積もった美しい保養地バート・ケーセンで、ぬいぐるみのメーカー、ケーセン社を(Koesener spielzeug Manufakutur GmbH)を訪ねたニキティキの一行は、すでに閉館時間を迎えていた美術館を、ケーセン社の社長、Dr.Schache の取り計らいで特別に見せていただいた。館長に案内された広いホールでは、沢山の古いケテ クルーゼ人形が整然と展示されていて、全盛期を彷彿とさせるそのコレクションは訪問者のわたし達をケテ クルーゼの世界に誘い込んだ。本や写真で知っていた古いシリーズの人形たちの視線は、写真で見るのと又違って、長いドイツの移り変わりの日々を語りかけてくるようで、その前をいつまでも離れられなくなるほど人の心をひきつける力を持っていた。短い訪問だっただけれど人形たちに再会を約束して美術館を後にした。古い建物のこの美術館にケテ クルーゼのコレクションはよく似合っていた。







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